1980年7〜8月
CB53初登頂 & ラダック・ザンスカール踏査
このたびのCB53峰登山ならびにラダック・ザンスカール地区踏査につきましては、格別のご支援をありがとうございました。おかげをもちまして8月7・8・11日と3回にわたって全員が登頂し、シャルミリと命名、またムーンランドと別称される乾燥冷涼地域の踏査・交流トレッキングも成果をあげることができました。ここに御礼とご報告を申し上げます。
隊長 | 村上泰賢 |
隊員一同 |
シャルミリ(仮称)〈恥ずかしがり屋の娘〉
CB53はBCへ入るまでにチラッと頂上部がCB54のかげに見えただけで以後C2へ入るまで、まったく姿を見せず、またサムンダルタプ氷河上流へ遡っても手前の尾根が邪魔して全容をとらえられないところからこう名づけた。
(注)山名については下山後IMFへ申請した。
強い風が吹きまくるバタルからポニーに荷を積んでキャラバン開始。ワイヤーブリッジに、ぶら下って濁流を越え、また腰近くまでの渡渉でしびれるほど冷たい水につかったリしてサムンダルタプ氷河末端に着く。氷河末端からいやがる馬方を説きふせ、強引にポニーを追い上げてサムンダルタプ氷河上にB.Cを建設した。 | |
バタル−BCキャラバンコース図(27KByte)へ |
BCからはサムンダル・タプ氷河を横切ってCB53からの枝氷河へ入ることになる。ところが枝氷河の末端は垂れ下って黒く光る氷壁となり、左下から濁った滝がほとばしっている。数回の偵察ののち氷壁の右手のガレ場にルートをとる。ガレ場は水分が乾くと生コンクリートがそのまま固まったようになり落石の惧れは少ない。
枝氷河の中央部には第1・第2と二段のアイスフォールがあって行手をさえぎる。C1を第1アイスフォールの真下に設け、アイスフォールの右にルートをとって上部雪原に出た。ゆるやかな起伏とクレバスで成っている雪原を登り、CB54の尾根をまわりこんで最奥部の安定した雪原に入ると、ようやくCB53はその全容をわれわれの前に現わした。
C2から間近にCB53の頂上部をふり仰いで心がおどった。
8月7日、第1次アタック。予定していたC3建設をやめて、C2から直接アタックする。きのうのルートエ作のおかげで稜線直下までスムーズに行き、フィクスドロープの終リから、新しくつないで、稜線へ出た。稜線からは雪稜伝いに頂上へ行けるというもくろみははずれ、岩稜に出て岩クズと雪まじりの尾根を登る。途中、岩塔をまいて下り、さらに次の岩塔はガラガラのいやな登りと亀裂をまたぐ不安定なところ。この2ヶ所でフィクスドロープを使いはたし、予備のメインロープも張って隊員にあせりがでてきたころ、突然頂上へつづく雪尾根にぬけ出た。
14時58分ついに頂上へ。初登頂だ。トランシーバーを通して感激をC2へ伝える。C2からはリチャードクレイダーマンのピアノが送られて頂上に流れた。つづいて8月8日第2次隊登頂。頂上からC2へ野沢のリコーダーの笛の音が送られる。
8月11日、第3次隊登頂。ついに全員登頂の隊長メッセージが各キャンプヘ伝えられた。
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ラダック・ザンスカールを越えて
私たちの目的は、ラダック・ザンスカール地方の人々の生活や文化に接し、地質・動植物等の観察と、村の子供達にスポーツ用品や群馬の小学生の絵等を贈り交流を深めることであった。 イスラム教文化圏からラマ教文化圏に変わり、チョルテン(仏塔)が道々に立ち、ゴンパ(寺院)ではお経を聞くことができた。 ジープやトラックの故障により、停滞を余儀なくされたり、予定外の地点から歩くはめになったりもした。 一行は私達4人、ガイド1人、コック1人、ボーイ1人、馬方3人、馬7頭・合計10人と7頭の旅であった。 日中は30℃以上を越える直射日光の中、氷河のつくりだした巨大なU字谷の底を歩く。時々モレーン(氷堆石)も現れる。 7000mを越えるヌン・クンの雄姿もあった。 |
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トレッキングルート概念図(拡大:46KByte)へ |
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※(ジ)=ジープ (ト)=トレック (バ)=バス
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CB53(シャルミリ) | ガンガバル | ストック・カンリ | チャウチャウカンニルダ |