マナリ付近の情勢(2000年8月)
マナリ方面は、印パ関係が今一つしっくりしていないことから、テロが相次いでいる。
現地の新聞その他によれば「8月24日ごろ、クルから奥に入った峠で、トレッキング中のスペイン人の母親と息子が殺され、現金とカメラを盗まれた」また、「7月にもマナリでドイツ人が殺された」などと聞いた。
この情報は、山川靖仁さんから寄せていただきました。詳しくは氏のホームページを参照してください。どうもありがとうございました。
前橋山岳会ブロード・ピ−ク登山隊2000行動概要
6月19日 スカルド〜アスコ−レ(ジ−プで移動)。
20日 アスコ−レ〜コラホン〜ジョラ(3.120m)。
21日 ジョラ〜バルドマル〜パイユ(3.365m)。
22日 パイユの裏山にて高度順応トレ−ニング。
23日 パイユ〜リリゴ〜ホブツェ〜ウルドカス(4.000m)。
24日 ウルドカス〜ゴレ2(4.200m)。
25日 ゴレ2〜コンコルディア(4.450m)
26日 コンコルディア〜ブロ−ド・ピ−クBC(4.900m)。
日本勤労者山岳連盟隊(労山隊、近藤和美隊長他9名)、イギリス、チェコ、スウェ−デン、スペイン隊が、すでに登山活動を行っており、このシ−ズン最初に入った労山隊によりC3までル−トが伸びている。
29日 登山活動開始。
松田は順応がうまくいっていない様で、BC〜C1往復に9時間を要する。午後より霙混じりの雨。
7月 2日 C1建設(5.750m)。
松田が遅れC1到着17:30。労山隊はC3に2日間待機してアタックを狙ったが、降雪で断念しBCへ下山。C3で積雪40Cm。
3日 C2への順応。
C1〜C2間、約3時間。松田は時間切れでC2に到達出来ず(C2まで、後5ピッチ)。C1へ一緒に下降。57才という年齢のせいなのか、初めてのヒマラヤで体が「高所」というのを覚えようとしないのか。
4日 C1〜C2〜BC。
Hiポ−タ−2人C1入り。約90Kgの荷物を2日間で荷上げしてBCに下りると言っているが、90Kgという重量を理解してくれているのか、こちらが不安になる。
6日 C2建設(6.250m)。
幕営地はガレ場で満足なテントサイトが無く、テントの1/5程が空中に飛び出している。BCよりC1を飛ばしてC2入る。
7日
松田は4日にBCへ降りたが、その後もパルスオキシメ−タ−(血中酸素飽和濃度)数値が60%代と低く、Hiポ−タ−と共にパイユまで降りる。
名塚、久保田は、C3への順応であったが、久保田のパルス数値が39〜44を示しており、C3に向かえず、かといってC2にとどまっているのも危なく、名塚一人高度順応を先行しても駄目で、一緒にBCへ降りる。
8日 休養。
労山隊がC4よりアタック。10時頃より天候が崩れだし、コル手前2ピッチで断念。
9日 C2へHiポ−タ−1人と共に移動
12日
C2にはC4の荷物がまだ残っていたが、次に上がる時で間に合うので、C2の食料食い潰しを避けるためHiポ−タ−をBCに降ろす。
13日 C3建設(6.900m)
小雪だが風が強く、1ピッチ離れてしまうとトレ−スは消えてしまう。
14日
久保田のパルスが33と低く、C4への順応を断念しBCへ下山。C1、C2のEPIヘッド、カ−トリッジを計画どおり荷上げしたが、実際使用した数で計算し直してBCに降ろす。午後、松田がパイユで3泊して高度順応を終え戻る。
16日 松田BC〜C1往復
10時間と掛かってしまったが、当初の登り始めと比べると苦しさは薄らいでいる。
17日
労山隊は3回目のアタックでC4に入ったが、降雪でBCに下山。
19日 C2よりC3へ移動
K2の山野井、ポ−ランド人のボイテク・クルティカは東壁を狙っていたが、天候不良で断念。クルティカはK2が6回目ということだが、時間切れで帰国。山野井は南南東リブへ転進。
20日 C3〜C4
途中ホワイトアウト。3本ものロ−プが交差しており、どれが本当のル−トか判らない。また、降雪の後で雪が締まり、ロ−プを掘り出すことが出来ず、4本のロ−プを新たなル−トに張って、C4予定地に到達。
23日 C4建設(7.300m)
労山隊も一緒に行動。前回アタック時この地点からでは頂上に届かなかったので、C4を高度にして100m位上げてアタックをするという。名塚、Hiポ−タ−で、空身でラッセルをし、ロ−プの掘り起こしを行ったが、3ピッチ程でホワイトアウトなり、また、この先クレバスが有るというのでC4へ引き返す。労山隊はさらに上部に進んだが、安全なテントサイトを見出せず、私たちのC4地点に戻ってきた。
24日 アタック
労山隊も一緒にアタックかと思っていたがC4から動かない。3人だけのラッセルはきつい。C4より4ピッチでロ−プがとぎれており、労山隊に確認を取ると、左のルンゼにル−トを伸ばしたとの事。しかし、見つける事が出来ず、新たに他のル−トを選んで2本のロ−プを張ったがホワイトアウトで先に進めず断念。
25日 再度アタック
労山隊3人と一緒。昨日と同様膝位までのラッセル。6人交替で行うが遅々として進まず。5本のロ−プをセットしたが、7月8日のアタックの時に労山隊が到達した高度までロ−プが足らず、急雪壁をロ−プ無しで2ピッチ登り労山隊がデポした6mmナイロンロ−プ4本を探し出し、12時頃コルに抜け出す。頂上を往復出来る時間はまだあるので、先を急ぐがラッセルと強風、残置ロ−プはあるが、ほとんどが新たにセットしなければ安全を確保出来ない状態で時間ばかりが経ってゆく。コルより3ピッチ進んだ所で、久保田の酸素が切れ、さらに登行を進めたが、前衛峰(8.006m)直下ですでに16:00になっており、頂上を断念。労山隊の2人はビバ−クの用意があり登行を続け、私たち3人と労山隊の1人は下山を開始したが、久保田はすでに高山病にはまっており、本人は下山しているとき、滝沢か八ケ岳に居る錯覚を起こし、水分を取ると目覚めるが、また高山病の夢の中に入っていってしまう。10m位下っては休みを繰り返しC4に帰幕したのは20:30。久保田は睡眠用酸素の残りを吸って寝る。
26日 久しぶりの快晴
久保田はBCに下山。名塚。Hiポーターも一度BCに下って休養の後アタックと頭によぎったが、今の天候がいつまた崩れるかわからないので、休養無しでアタックと考えC2に下降。労山隊の2人は前衛峰直下でビバーク、10:00頃登頂。
27日 C3へ移動
松田はBCからC2に移動中、C1付近で左太ももに落石を受けてしまう。C1到着後ズボンを脱いでみると、7pほどの裂傷。一緒に行動していたHiポーターと共に、BCに下山。日程的に松田の復帰は考えられない。私たちの隊を含め、8隊約40人が同じルートを登下降していたのに、なぜ松田だけが・・・。
29日 3回目のアタック
26日以降晴天が続き絶好のアタック日和になる。雪は締まりラッセルは無し。コル7:39、前衛峰9:38、頂上10:35、無風。中国側は約7000m位に雲海が広がっていた。
30日 C3〜BCに下山
労山隊2次の4人とHiポーター1人登頂。韓国隊(隊員の中に12座目)登頂。K2の山野井、南々東リブ単独、無酸素登頂。
31日 ハンガリー隊2人登頂
6日間の晴天が崩れだした。夜カミナリの音を聞く。9時頃BCで強風が吹き、キッチンテントが壊される。
8月 5日 BC撤収。〜コンコルディア〜アリーキャンプ。
6日 アリーキャンプ〜ゴンドコロ・ラ(5.650m)〜ヒスパ−グ〜シアチョ。
7日 シアチョ〜ウシェ〜カンデ〜マチュウル(ウシェよりジ−プ移動)。
8日 マチュウル〜スカルド。
この情報は、前橋山岳会ブロ−ドピ−ク登山隊2000、名塚隊長より、群馬県山岳連盟事務局長、女屋等志様を通じいただきました。ありがとうございました。
群馬県高校教職員キリマンジャロ登山隊19名登頂し8月6日帰国
群馬県高校教職員キリマンジャロ登山隊は19名が登頂し、8月6日に帰国しました。体調を崩し、現地の病院に入院していた隊員もいましたが8月14日までに全員帰国しました。
ご支援をいただきました皆様ありがとうございました。また、登山隊は報告会を開く予定です。その折にはご連絡しますので、ぜひご参加ください。
名塚隊長ブロード・ピーク登頂し帰国へ
8月8日、前橋山岳会ブロ−ドピ−ク登山隊2000、名塚隊長より小泉俊夫前橋山岳会会長へ電話で連絡がありました。
登山隊は名塚隊長が登頂し、すでにスカルドへ戻った。隊員は小さな事故もあったようだが全員無事である。8月14日に帰国の予定である。
この情報は、前橋山岳会会長小泉俊夫様から、群馬県山岳連盟事務局長、女屋等志様を通じいただきました。ありがとうございました。
前橋山岳会ブロード・ピーク登山隊2000だより
6月19日夜、前橋山岳会ブロード・ピーク登山隊 名塚隊長からファックスが届きました。
前略
6月12日に無事イスラマバードに到着しました。
別送品で送った隊荷も通関が済んでおり、13日からは、ニッパトラベルの裏庭に野積みにされていた、群馬岳連隊の装備の確認と私たちに必要な装備の引出しを行ないました。が、デポリストとだいぶ違っており、結局すべてのボックスを開いてチェックしたのですが、中にはデポして3年も経過しているので、サビで鍵が開かないボックスもあり、鋸を使いようやく開ける事ができました。
日中の温度は37℃〜40℃もあります。今年は例年よりも雨量がすくなく、決められた時間の給水しか与えられず、それをタンクに溜めて使っているとの事で、だいぶ節水を強いられました。シャワーにいたっては蛇口から少ししか出ない水を一度バケツに取り、タオルを浸して体を拭く程度しかできませんでした。
イスラマバードでの梱包は隊員の人数が少ないこと等もあり、隊荷が少なく13日、14日で終わり、15日には陸路でスカルドに向かいました。
私たちと共にイスラマバード入りした他の隊には、日本を代表するクライマーのひとり山野井泰史(35歳)と、その彼と組んで未踏の東壁を狙うポーランド人のボイテク・クルティカ(52歳)も一緒です。ベースキャンプまでのキャラバンを共にすることができるので、彼らはどのような方法で高度順応していくのか、またどのようにモチベーションを高めていくのか勉強になります。
スカルドへはイスラマバードを朝4:30に出発して、途中で昼食をとりながら経由地のチラスまで17〜18時間かかり、さらにチラス〜スカルドへは8時間をかけてようやく到着しました。スカルドは日中27℃〜30℃はあるのですが、イスラマバードとは違い、夜は涼しく毛布をかけて寝ています。
明日18日はいよいよベースキャンプに向けキャラバンを開始します。今の予定ではブロードBCへは25日〜26日頃に入ります。
今年のカラコルムの天候は安定しているようで、雪もあまり降っていないようです。私たちの登山が開始しされてからも良い天候が続くことを願うばかりです。
前橋山岳会ブロード・ピーク登山隊2000
この情報は名塚隊長夫人から、群馬県山岳連盟事務局長、女屋等志様を通じいただきました。ありがとうございました。
山岳雑誌「山と渓谷」の2000年5月号(No778)のP139から「インド・ヒマラヤ スピティの旅」(文と写真、川崎吉光氏、氏は山と渓谷社社長)という記事があり、チャウチャウカンニルダ峰や、ランジャ村の写真をはじめスピティの様子が紹介されています。
マナスル登山隊から登山行動の詳細届く
2月1日、群馬県冬期マナスル登山隊 名塚隊長から登山の詳細についてファックスが届きました。
なお、登山隊は2月3日に帰国します。
登山内容
1999年
12月16日
ヘリコプターでサマ部落の上、ケルモカルカ(3500m)に入る。
12月17日
全隊員でマナスルBC(4700m)を往復。既に登山活動を行っている札幌山岳連盟隊は約7400m位まで達していたが、それより上部にルートが伸びないようである。11月下旬と12月中旬に雪に降られ、予定が遅れているとの事。
12月21日
BC建設
12月22日
札幌隊は20日に登山を断念、今日BCを撤収。
12月24日
今日より、佐藤、品川、田島によりC1への荷上げを開始。
12月28日
札幌隊がC2地点(6200m)が、私達の予定している高度より低いので、佐藤、品川、田島で高度順応を兼ねて6250mに到達。もう少し上にC2を作りたいが雪崩の危険を考えると良い場所がない。私達の他に外国隊2人が登山活動を行っており、1月1日の登頂を目指してBCを出発。
2000年
1月1日
名塚、後藤、剱持、福本でC1(5600m)を建設。外国隊の2人は登山を断念してBCへ下山。
1月2日
佐藤パーティーはBC〜C1へ移動。名塚パーティーはC2への荷上げ。
1月3日
C2(6250m)建設。佐藤パーティーはC2へ移動。途中のアイスフォール帯は崩壊した箇所が数多くあり、危険極まりない。89年のルートと比べると、だいぶ右よりのルートを採ってアイスフォールの上に出ている。途中ラダー1台を使用。
1月4日
佐藤パーティー、C3地点を決めるべく荷上げを兼ねて上部を目指す。7100mまで上がり、ルートより右へ1ピッチ、テントサイトになりそうな場所を見つけC2へ引き返す。12月30日から1月3日まで5日間続いた雲が全くない晴天が、頂上直下にあるピナクルに雲をまとわり付ける。
1月5日
名塚パーティー、C2へ移動
1月6日
C3予定地に向かう。北峰のコル(6650m)に2時程で到着。コルより上は雪がしまっており気持ちよく高度をかせいで行ける。その頃からピナクルにまとわり付いていた雲がさらに厚みを増し、黒くたれこむように私達に近づきつつあり、上部のフィックスロープが始まる6900mで、もし今日C3を建設できても明日アタックできなかったら、せっかく荷上げした食糧を食いつくすだけと考え、C2に引き返した。
1月7日
メンバーの入れ換えを行う。品川を上げて福本を下ってもらう。また、この頃になるとC1〜C2間のクレパスが、さらに大きく開いてきているので、佐藤、田島でルート補修を行う。
1月8日
C2より再度C3建設、アタックへと出発。4日以降ピナクルにまとわり付ついている雲は南東へ流れているがC2付近は風も無く今日はC3を建設できると思われた。しかし、北峰のコルへ出たとたん強風に見舞われる。それでも強風は北峰のコルだけであろうと何度も片膝をついて耐風姿勢をとりながら進むが、全く風はおさまらず、6日と同じ地点でC2に引き返す。一端体勢を整え直すためにC1に待機していた佐藤パーティーと共に全員BCへ撤退した。
1月16日
9日〜15日の7日間、雪が降り続いた。ルート上に積もった雪でトレースが消えており、C1までラッセルでは1日で入れないと考え、佐藤、福本、田島でラッセルを行い、サマから食糧を上げてるポーターのために、品川、剱持でラッセルを行う。
1月17日
久しぶりの雲一つ無い快晴。名塚、後藤、品川、剱持がC1へ移動。テントは雪に埋もれており約1時間かけて掘り出す。
1月18日
C2への移動。すぐラッセル。名塚がヒドンクレパスに左足を突っ込むが、小さいクレパスで事無きを得る。フィックスロープは全て雪に埋もれており、掘り起こしができない。この状態ではとてもC2に移動することはできず、途中ザックを置き、ルート工作を行う事にした。とは言ってもフィックスロープはさらに上部へデポしてあるので行けるところは強引に通過をしたが、約5900mでC1へ引き返す。
1月19日
BCより佐藤パーティーがフィックス、スノーバーを荷上げ。昨日の朝方からピナクルに掛かっていた雲が厚みを増している。C1は午後2時頃から雪が降り始め、共に風も強くなってきた。快晴は2日ともたなかった。午前中はまだ楽観していたが、この様なサイクルで天候が続くのであればとても頂上に達することはできず、C2直下のアイスフォール帯の崩壊、クレパスの開きの拡大等を考えると、隊員に「突っ込め」とは言えず、午後6時の無線交信で「登山断念」を伝える。
1月20日
一晩中風雪が吹き荒れ、インナーブーツを履いてシュラフに入り込んだ隊員もいた。C1全てを撤収し、BCへ下山。
1月24日
BCよりサマへ下山
1月26日
サマよりヘリコプターでポカラ着。
1月27日
ポカラよりバスでカトマンズ着
マナスル登山隊
総隊長 星野 光、登山隊長 名塚秀二、副隊長 佐藤光由、登攀隊長 後藤文明
隊員 品川幸彦、剱持典之、福本誠志、田島崇行
この情報は群馬県山岳連盟事務局長、女屋等志様からいただきました。ありがとうございました。
マナスル登山隊(名塚隊長)登頂断念
群馬県山岳連盟発
本日(1月20日)、群馬県冬期マナスル登山隊名塚隊長から衛星電話で日本時間午後5時5分に連絡がありました。
強風が1週間連日吹き、1月19日に断念を決定し、1月20日全員無事ベースキャンプへ戻った。
2000年1月1日登山開始1月6日第1回アタック、1月8日第2回アタックしたが失敗。1月8日から強風が吹き出したため全員ベースキャンプへ戻り、2〜3日様子を見ることにした。再度のアタックのため準備して待機するもの強風は1週間連日続き、1月19日断念を決定しベースキャンプまで撤収。
マナスル登山隊 名塚隊長からの衛星電話
群馬県山岳連盟発
本日(1月8日)午後7時16分、マナスル登山隊長 名塚秀二氏から衛星電話がありました。内容は、次の通りです。
2回アタックしたが、風が強いために登頂できず。本日全員BCへ戻った。2〜3日様子を見て再アタックする。
第21回インド・ヒマラヤ会議
新春恒例のインド・ヒマラヤ会議は、下記のとおり開催される。
最近インド登山を実施する登山隊の情報を把握することが困難になっており、加えてインドの受入れ側窓口であるIMFからの情報提供も緩慢であり、他のヒマラヤ諸国に比べて日本ではインド登山は下火との印象がある。
2000年以降インド登山を計画されている隊の多くの参加を望みたい。
記
1.日 時 1月16日(日)9時〜17時
2.場 所 豊島区民センター
豊島区東池袋1−20−10
3.内 容 インド登山の諸問題99年登山隊報告
4.会 費 3,000円(資料代含む)
5.申込み HAJ事務局
(「ヒマラヤ」No338 2000 JANUARY 日本ヒマラヤ協会より転載)
HAJ(日本ヒマラヤ協会)事務局の連絡先
〒170‐0013東京都豊島区東池袋4‐2‐7 萬栄ビル501号
電話 03-3988-8474