◆お 釈 迦 さ ま の 教 え 1◆
いつの時代でも、役にたつ教え。

        そ の 1       
        みょうほうれん げ きょうほうべんぽんだい に
    ◎妙法蓮華経方便品第二

そ    とき   せ そん さんまい    あんじょう     た       しゃ りほつ                 しょぶつ   ち え   じんじんむりょう

其の時に世尊、三昧より安詳として起って、舎利弗につげたまわく、諸仏の智慧は甚深無量なり。
そ    ち え    もん  なんげなんにゅう     いっさい  しょうもん びゃくしぶつ   し       あた      ところ      ゆ え   いか
其の智慧の門は難解難入なり。一切の声聞・辟支仏の知ること能わざる所なり。所以は何ん、
ほとけかつ     まんのくむ しゅ  しょぶつ   しんごん    つ      しょぶつ   むりょう  どうほう  ぎょう  ゆうみょうしょうじん
仏曽て百千万億無数の諸仏に親近し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進して、
みょうしょうあまねき              じんじんみぞう う   ほう  じょうじゅ     よろ      したが    と        ところ  い しゅさと  がた
名称普く聞こえたまえり。甚深未曽有の法を成就して、宜しきに随って説きたもう所、意趣解り難し。

       せそん  しず     め     ひら               さんまい                             しゃり ほつ
そのとき、世尊は静かに目をお開きになりました。三昧をおわられたのです。そうして、舎利弗にむかって

こうおおせられたのです。
       ほとけ  ち え              おくふか                                           ち え    おし
「もろもろの仏の智慧は、ひじょうに奥深く、とうていはかりしることはできません。その智慧の教えは、たい
                                ほとけ                   むすう  ほとけ した   おし   
へんむずかしく、はいりにくいものです。なぜならば、仏というものは、かつて無数の仏に親しく教えをうけ、

その数々の教えをあらゆる努力をつくして実践し、内外からおこる障害や困難を、勇猛心をもってのこらず

克服し、ただひたすら目的のためにつきすすんでいったのち、ついに、すぐれた智慧をすべての人に仰が

れるような身となられたのです。こういうはかりしれぬほどの努力の結果、いままで世にしられたことのない

奥深い真理をさとられたのが、すなわち仏なのです。仏は、その真理を、人びとの機根に応じた適宜な説

きかたで説かれるのですが、人びとは、その奥の奥の真意がどこにあるのか、なかなか悟ることができ

ません」



〈三昧より安詳として起って〉───安詳というのは、三昧からでるとき、安らかにおちついていて、

真理を詳らかにしている状態を形容したことばです。

〈其の智慧の門は難解難入なり〉───門は法門の門で、教えということ。なぜす難解(理解するのが

困難である)
かといえば、仏の智慧はたんなる学問や研究によってえられた〈知識〉という程度のものでは

なく、ありとあらゆる諸仏(真理)に学び、しかもそれをたゆみなく実践したうえでようやく到達した、最高無

上の智慧であるからです。なぜ難入(その門に入るのが困難)であるかといえば、多くの人びとはひくい

段階の知恵で満足していて、その最高無上の知恵に気がつかないからです。門があっても、気がつかなけ

れば、だれもはいることはできません。そのことを説明されたのが、つぎの一句です。

〈甚深未曽有の法を成就して、宜しきに随って説きたもう所、意趣悟り難し〉───宜しきに 随って

説きたもう(随宜説法)というのは、すなわち〈方便〉によってお説きになることです。方便の教えを聞いた

人は、それによって幸福の階段を一段上ったことはたしかなのですが、たいていそれで満足してしまうため

に、仏の真意がずっと上にあること(すなわち、すべての人を仏の境地まで引き上げてあげたいという

最終的な目的)
に気がつかないのです。この〈悟り難し〉というのは、理解しようと努力しても理解しにくい

というのではなく、〈気がつかない〉という意味です。


舎利弗 、吾成仏してより己来、種々の因縁・種々の譬諭をもって、広く言教を演べ、

無数の方便をもって、衆生を引導して諸々の著を離れしむ。所以は何ん。如来は方便・

知見波羅蜜、皆己に具足せり。


「舎利弗よ。わたしが仏の悟りをえてからこのかた、いろいろと過去の実例をあげたり、譬えを引いたりし

て、おおくの人びとに教えを説きひろめました。すなわち、それぞれの人と場合に応じた適当な方法で

人びとを導き、自己中心の考えかたからこの世のさまざまなものごとに執着し、その執着のために苦しん

でいることを悟らせ、それからはなれさせることによって苦しみを解いてあげました。なぜそれができたか

といいますと、わたしは方便と智慧の両方を完成し、身に具えているからです」


〈種々の因縁・種々の譬諭をもって〉───この場合の因縁というのは、過去のせ実例にことよ

せて、教訓を説くという、説法のひとつの方法をいうのです。こういう説法の形式を〈因縁説〉といいます。

 また、いろいろな譬えをひき、それぞれの人にのみこみやすいようにして、法を説く方法もあります。これ

〈譬説〉といいます。

学問のある人や、相当に修行をつんだ人にたいしては、理論的に説いたほうが、ほんとうに納得させやす

いものです。いわゆるインテリにたいして、因縁話や譬え話などをすると、かえって仏法をやすっぽくみられ

てしまう恐れもあります。こういう人には、真正面から理詰めで説くにかぎります。こういう説きかたを

〈法説〉といいます。

お釈迦さまは、相手によってこの〈法説〉〈譬説〉〈因縁説〉を自由自在にお用いになりましたが、法華三部

経にはその三つの説きかたがそろっております。《無量義経説法品第二》〈善男子、是の一の法門を

ば名づけて無量義と為す〉
から〈諸々の衆生をして快楽を受けしむ〉までは法説の代表的なものでしょ

う。

《妙法蓮華経》にでてくる七つの譬え話〈法華七諭〉は、すべての経典のなかでも有名な〈譬説〉です。

また《常不軽菩薩品》などは〈因縁説〉の一種です。

〈方便・知見波羅蜜〉───方便波羅蜜と知見波羅蜜の二つをいいます。波羅蜜は梵語のパーラ

ミターで、ものごとが完成するという意味で、〈到彼岸〉と訳されます。そこで、方便波羅蜜というのは、

人と環境と時代に応じて、それぞれにもっとも適切な教えかたのできる自由自在な能力を完成していること

です。知見というのは、〈知〉は悟ること、〈見〉は推理して真理を求めることですから、つまり智慧のことを

いうのです。したがって、知見波羅蜜とは智慧を完成していることです。


舎利弗 、如来の知見は広大深遠なり。無量・無碍・力・無所畏・禅定・解脱・三昧あって

深く無際に入り、一切未曽有の法を成就せり。


「舎利弗よ。如来の智慧というのは、ひじょうに広大であって、この宇宙間のあらゆるものごとをしりつくして

います。また、ひじょうに深遠なものであって、遠い遠いむかしのことから、永遠の未来のことまで、みとうし

ているのです。すなわち、無量の衆生に無量の福を生ぜしめる徳と、教えにおける完全な自由自在と、こ

の世のあらゆるものごとをしりうる力と、なにものをもおそれはばかることなく法を説く根本的な勇気と、心

の散乱をふせいでしずかに真理におもいをこらす境地と、ものごとに対するあらゆる執着から脱け出て真

の安心を得る心のもちかたと、精神を一事に集中してその一念を正しくたもつ精神統一の法と、このすべ

てをそなえ、際限のない境地に深く入り、いままでだれもしりえなかった真理を見極め、いままで人の達し

たことのない法を成就したのであります」



四無量心 〈無量〉───仏の〈四無量心〉のことです。四無量心とは、〈慈(ひとをしあわせに

してあげたいとおもう心)〉・〈悲(ひとの苦しみを抜いてあげたいとおもう心)〉・〈喜(ひの喜びを共に

喜ぶ気持)〉・〈捨(ひとに施した恩も、ひとから受けた害もわすれ、一切の報いを捨て去る心)〉
の四

つで、仏はこの四つの心をもって無量の衆生に対され、無量のしあわせを生みだされるかたであります。

四無碍 〈無碍〉───仏の〈四無碍〉のことです。無碍というのは、障碍や滞りがない、

すなわち自由自在ということで、仏は教えを説かれるうえに四つの自由自在(すなわち完全な自由自在)

をもっておられるというのが〈四無碍〉です。それは、〈法無碍(教えの内容が真理に即しているために

自由自在である)〉・〈義無碍(教えの意味を自由自在に知りつくしておられる)〉・〈辞無碍(教えを

説かれるのに適切なことばを自由自在に駆使される)〉・〈楽説無碍(いつもみずからすすんで自由

自在に教えを説かれる)〉
の四つです。

 これは、仏のみが完成された自在力ではありますけれども、われわれがひとに教えを伝える場合にも、つ

ねにこの四つの境地を目標にし、すこしでもそれに近づく努力をしなければなりません。

〈力〉───仏の〈十力〉の略です。

一、是処非処をしる智力───こういう場合はこういうことをするのが適当であり、こういうことは不適当

   である── ということを、誤りなく知る力です。

二、三世の業報をしる智力───業というのは行為ということ。ある行為が行われると、かならずその

   結果が何かの形で残ります。それを報といいます。この業ということについては、あとでくわしく説明す

   る機会があると思いますが、とにかくこの〈行為(業)〉と〈行為  の結果があとに残す影響(報)〉とい

   うものは、過去・現在・未来にわたってつづくもので、  それを残らず見とおす力を、仏は具えておら

   れるわけです。

三、諸禅解脱三昧を知る智力─── いろいろな境地に応じて、その境遇に動かされない心 のもちかた

   というものがあります。そのすべてを知りつくしているのが、仏の智慧の力です。

四、諸根の勝劣をしる智力 ─── 教えを聞く人の機根の程度を、はっきりと見分ける力 です。

五、種々の解を知る智力 ─── 同じ教えを聞いても、人々の性質や、職業や、生活のち がいなどに

   よって、解釈のしかたに微妙な相違ができるものです。その微妙な相違をも見分けることのできる

   力です。

六、種々の界を知る智力 ─── 人々の境界すなわち身の上を見とうす力です。

七、一切の至る所の道を知る智力─── こういう行いはこういう結果に至る ── と、現在の状態を

   見て、これから先たどってゆく道をみおす力です。

八、天眼無礙を知る智力─── 普通の人ではわからない、他人の心の動きとか、ものごと の真相と

   かを誤りなく知る力です。

九、宿命と無漏とを知る智力 ─── 宿命というのは、ある人が前世になした行いによ って、どのような

   〈業〉を負ってこの世に生まれてきたかということ。無漏とは、すべての迷いを残らず離れ去ること。

   つまり、人々は前世からの業によって、それぞれちがった迷いをもって生まれてきています。ある人は

   物欲が深く、ある人 はむやみに名誉を望むというぐあいです。そういう宿命を人によって見分け、そう

   いう迷いを取り除く指導方法を知る力を、仏は具えていらしゃるわけです。

十、永く習気を断つことを知る智力 ─── この習気というのは、潜在意識の一種で、だれしも覚えの

   ある心理です。あるわるい癖───たとえば怒りぽいとか、小さいことでもすぐとがめたがるとか、

ひとの幸福を見ると妬む気持が起こるとか───を、修養によってぬぐい去ってしまったように心の表面で

は思いこんでいても、たまたまそういう機会にめぐりあわせたとき、ふと自分の心の奥に、まだその癖を起

こしそうな気分が残っていることを、感ずることがあります。ムラムラと心の表面に湧きあがりそうになるの

を感じて、「ああ、まだカスが残っているな」と思うのです。心の奥底に残っているその微妙な、あるかなし

かの気分を、習気というのです。

 ところが、この難物である習気までも、永久に起こらぬように断ち切る方法を知る力を、仏は具えておられ

るわけです。

 ついでですが、いま「ああ、まだカスが残っているな」と思うと書きましたが、自分自身にこのような態度で

相対することは凡夫にとって大切なことなのです。すなわち、自分の心を客観するといいますか、他人のよ

うな目で自分の心を眺めてみることは、心を清め、高めるうえに、たいへん役立つのです。

〈無所畏〉─── 仏の〈四無畏〉のことです。無畏というのは〈畏れはばかるところなく法を説く〉

という意味で、それには四つの条件があり、仏はそのすべてを具えておられるというのです。その四つの条

件とはつぎのとうりです。(《大智度論》にあるのと《倶舎論》にあるのと、少々の相違がありますが、ここ

には前者をとります)

一、一切智無所畏─── 仏はあらゆる智慧を成就しておられます。ですから、どんな人に どんなことを

   説くのにも、畏れはばかるところはないわけです。

二、漏尽無所畏─── 漏は迷い。その漏がすっかり尽きておられるのが仏です。ですから、教えを説く

   のに、なんの心配も気がかりもないのです。

三、説障道無所畏─── 障道というのは、仏道を障げるものという意味です。仏道のため にマイナスと

   なるもの一切です。真っ向から仏道に害を加えようとするものもあれば、見  かけは仏道のようでも

   中身は にせものという謗法の存在もあります。こういうさまざまなマイナスの正体を大衆の前に解き

   あかして、朝日を受けた霜のように消し去ってしまう  ことは、絶対の真理を背負っておられればこそ

   できるわけです。

四、説尽苦道無所畏─── 仏は、あらゆる苦を消滅する道を知りつくしておられるがゆえに、いかなる

   事態に対しても正しく的を射た方法を教えることができて、ひとつとして外れることがないのです。

ですから、すこしもためらうことなく、道が説かれるわけです。

 以上は、〈仏の四無畏〉ではありますけれども、われわれ仏道の宣布につとめるものは、やはりこの四無

畏を理想とし、できるかぎりそれに近づくよう、努力しなければならないのであります。すべて、教典の中に

述べられていることは、表面はたんに仏さまをたたえたことばのようではありますけれども、その裏には「そ

の真似をしなさい」という意味が含まれているものと受け取らなければなりません。

〈無際に入り〉─── 無際とは際限の無い状態のことをいいます。ですから、無際に入りとは、人智では

おしはかることのできない境地に、深く入ることを意味します。


舎利弗、如来は能く種々に分別し、巧みに諸法を説き、言辞柔軟にして、衆の心を悦可せしむ。

舎利弗、要を取って之を言わば、無量無辺未曽有の法を、仏悉く成就したまえり。


「舎利弗よ。わたしは相手と場合に応じていろいろに説きかたをかえて、たくみにおおくの教えを説き、しか

もつねに柔らかでのみこみやすいことばをもって説いて、人々の心に教えをきくことの喜びをわき起こさせ

たのです。舎利弗よ。これまでにのべたことをひっくるめていえば、普通の人間では想像することもできな

い、いままでだれも達したことのないはかり知れない最高の法を、わたしはすっかり悟ったのです」


〈衆の心を悦可せしむ〉─── 教えをきいて、なるほどとハッキリ理解できれば、なんともえぬ深いよろ

こび(法悦)がわきおこってきます。そういうよろこびをおこさせるように説くのが教化の要諦でありまして、

そこに方便の尊さがあるのです。むやみにむずかしいことばをつかったり、相手かまわず一本調子の理論

をふるまわしたりするのは、柔軟の反対の剛強な説きかたで、人によっては理解に苦しんだり、そのため

に悲観や失望をおこしたりしやすいものです。なんといっても、すなおに心にしみこんでいくような、やわらか

な説きかたが第一といえましょう。


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