◆お 釈 迦 さ ま の 教 え 2◆
いつの時代でも、役にたつ教え。

       そ の 2       
        みょうほうれん げ きょうほうべんぽんだい に
    ◎妙法蓮華経方便品第二

止みなん、舎利弗、復説くべからず。所以は何ん、仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法

なり。唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の如是相・如是性・如是体・

如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり。



ここまでお説きになりますと、世尊は急に黙りこんでしまわれました。そして、しばらくしてふたたび口を

お開きになると、こういいだされたのです。

「やめよう、舎利弗、これを説明してみても、わかるはずがないとおもいます。

なぜならば、仏が究められた法というものは、この世における最高の法であり、

ほかに類のない、そして普通の人間にはとうてい理解できないものであるからです。

これは仏と仏の間だけで理解できるものであります。すなわち、もろもろの仏は、

この世のすべてのものごとのありのままの相を見極めつくされたのですが、

わたしもまたそれを見極めたのです。

つまり、すべてのものごとのそれぞれについて、それはこのような姿・形をしている、

このような性質をもっている、このような主体をもっている、このような能力が具わっている、このような

はたらきをする、このような原因があり、このような条件があって、このような結果を生ずる。それによ

ってこのような影響を後に残す、ということであり、この相から報までの九つのことはすべて一貫しており

平等なものである、ということを完全に見極めたのです」


 ここが、この品のなかでも最大の要点です。とくに〈如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如

是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末本末究竟等〉
〈十如是〉は、法華経の精神が之に集

約されているとして、〈略法華〉といわれているぐらいですから、徹底的に解説してみることにしましょう。

〈仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり〉─── ここで疑問になるのは、いったい

この〈仏〉というのはだれを指しているのかということでしょう。すぐまえにも〈仏悉く成就したまえり〉

〈仏の成就したまえる所は〉とありますが、ご自分のことをおっしゃるのに敬語をつかわれるのはお

かしいし、かといって諸法の実相を悟られたのはお釈迦さまご自身だし───とふしぎにおもわれるか

もしれません。これは、ご自分とかほかの諸仏とかという区別なしに、仏の本質を指しているので、いわ

〈仏というもの〉ということです。形に現れた仏としては、もちろんご自分をひっくるめた諸仏を指して

いるのです。ですから〈仏と仏と〉とわざわざ二つならべておっしゃっているわけです。

諸法の実相 〈諸法の実相〉─── 実相とは、宇宙のすべてのもののありのままの真実の相、

すなわち〈如〉とか〈法性〉とかいう意味につかってあることもありますし、ごく軽い〈実際〉とか〈真相〉

いう意味につかってあることもあります。そのほかに〈空〉とか〈中道〉とか〈般若波羅蜜(完成された

最高の智慧)〉
とか〈涅槃〉とかとおなじ意味につかわれていることもあります。

 これをおおきくわければ、〈すべてのものごとの、現象としてあらわれている姿をありのままに観

る〉
という意味と、〈すべてのものごとの本質の相を観る〉という意味の二つになります。

 ところで、ここに〈諸法の実相を究尽したまえり〉とあるのは、そのどれにあたるかといえば、明らか

に両方を指しているのです。すべてのものごとの本質の相をみながら、現象としてあらわれている相も、

ありのままにみておられるのです。

 そのことは、《大智度論》のなかで竜樹が〈第一義空〉を説明している、つぎの文章のなかからも、

はっきり理解することができましょう。

第一義空
「第一義空とは諸法の実相に名づく。破せず壊せざるが故なり。この諸法の実相もまた空

なり。何を以ての故に。受なく着なきが故なり。もし諸法の実相〈有〉ならば、まさに受くべく着すべし。実

なきを以ての故に、受けず、着せず。若し受け著せば即ち是れ虚誑なり」。破せず、壊せず─── す

なわち永遠に破壊しない絶対の真理、それが 諸法の実相の教えであるというのです。そして、諸法の

実相の教えそのものも、けっして固定した形をとることがありません(空)。ものごとは、われわれが目で

見、耳できいた瞬間は「これがまちがいない実在だ」と思えるのですけれども、しかしその瞬間から、もう

うつりかわり、動いているのです。すなわち、〈実在〉として心に受けとる(受)のもまちがいだし、まして

それを実在だとして執着(著)するのもまちがいなのです。すなわち、現象という現象はすべて縁起の

法則によって生じ、うつりかわり、滅してゆくものであって、実体というものはないからです。

 つまり、諸法実相の教えそのものをも、決して固定した決めつけたとらえ方をしてはいけない、という

のです。もし諸法実相の教えを固定したものとしてとらえると、今度はその固定した教えに執着してしま

うからです。つまり〈若し受け著せば即ち是れ虚誑(いつわり)なり〉なのです。

 ですから、「すべてのものごとの本質の相をみながら、現象としてあらわれている相をもありのままに

見る」ということが、第一義となってくるのです。このように見ることが、諸法の実相を見極めることになる

のですが、並大抵のことでできることではありません。しかし、それを見極めないかぎり、この世のすべ

ての現象のほんとうの意味はわかりません。仏のみがそれを見極めておられるのです。仏の智慧を得

て、はじめてそれを見極めることができるのです。 そして、このようにすべてのものごとの実相を見極

められた仏の立場からすると、すべては〈大調話の世界(涅槃)〉なのです。仏はそれを見極めて、

われわれに示して下さいました。凡夫であるわれわれがそのように見ることができずに大調話しないの

は、人間たちが小さな〈我〉をもってものごとを見、考え、行動するからであって、すべての人が〈我〉

執着する心をすてて、ありのまま(如是)の心をもってすべてを見、考え、行動すれば、この世はこのま

まで涅槃の相となるのだと教えられているのです。

 その例証として、ここにひとつのおもしろい学説を紹介しましょう。学説というよりは、もっとおおきな、

むしろ世界観ともいうべきものであります。

 ロックフェラー研究所の有名な細菌学者R・デュポス博士は、《健康という幻想》という本のな

かで、───細菌は病気の直接のそしてただ一つの原因とはいえない。病原性の微生物 と人間や動

物や植物の間には、つねに〈動的な〉つりあいの関係があるのである。このつりあいの関係は、気象と

か、食物とか、労働条件とか、経済状態とか、人々の心のもちかたとか、その他分析しつくせないほど

のおおくの原因によって、つくられているものである。病気というのは、そのつりあいがやぶれた状態を

いうのである。過去何世紀もの間に、ハンセン病・ペスト・梅毒・天然痘・結核などの病気があいついで

流行し、そしてあるいは下火になり、あるいは消えうせてしまったが、それは、医学の進歩によって下火

になり、消えうせたというよりは、それ以前に、人間と病原性微生物の間に〈共存関係〉ができあがった

からである───という意味のことをのべています。

 すばらしい達見だとおもいます。仏の智慧にちかずいたものの見かた・考えかたです。病原性生物

(いわゆるバイキン)
と人間との間にも、つねにつりあいの関係があるというのです。そのつりあいが

破れればある病気がはやるのだが、いつしか適応による共存関係ができて、またつりあいが生ずる

───というのは、つまり、おおきな目で見れば、そして長い目で見れば、大調話をしているということで

す。それが〈動的な〉大調話であるというところなど、仏教の〈諸行無常〉〈諸法無我〉〈涅槃寂静〉

教えそのままです。

(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三法印については、適当な機会にくわしく解説しましょう)

 ついでですが、デュポス博士は、人生と健康ということについて───病気をしないで、

元気で、長寿するのが健康な生活ではない。たとえ自分の健康や生命を危険にさらしても、たえず前進

し、向上をもとめる宿命を人間はもっている。人間は、こうして人間完成へと前進をつづけるべきもので

ある。だから、たんにからだがおおきくて成長が早いのが健康だと定義することはできなて。自分のつ

くった目標にもっともよく合った状態を健康というのである── と断じています。〈自分の健康や生命

を危険にさらしても人間完成へと前進する〉
、それは、まさしく法華経の不惜身命の精神であり、

また〈目標に合った状態こそ健康である〉、それは〈中道〉の精神そのままであります。?

 まことに達人というものは、仏の道とはしらずに仏の道を説くものであると、感嘆せざるをえません。

十如是 ここで、〈十如是〉について説明しましょう。〈如是〉という語にも、いろいろな意味 がふくまれて

います。第一に〈このように〉とか、〈このような〉という意味、第二に〈信〉という意味、第三に〈ありの

まま〉
とか〈あるがままのすがた〉という意味、第四に〈十如是〉そのものをさすという意味、このように

さまざまな意味があって、しかもこの〈十如是〉〈如是〉には、それらが渾然とふくまれているとみるべ

きです。

〈如是相〉─── あらゆる存在には、かならずもちまえの相(すがた)があります。たとえば、

朝顔は・赤・白・青・紫などのラッパ型の花を咲かせます。これが朝顔のもちまえの相です。朝顔のあり

のままの相です。こういうことを如是相といいます。

〈如是性〉─── 相のあるものには、その相にふさわしいもちまえの性質というものがかならずありま

す。ある朝顔には赤い花を咲かせる性質があり、ある朝顔には白い花を咲かせる性質がそなわってい

ます。つまり、性質にふさわしい花の色や形があらわれるわけです。これを如是性といいます。

〈如是体〉─── 相があり、性質があるものには、そせそのものの主体があります。この主体

といっても、何か特別な存在で、永遠に変化もしなければ、他との関係もなしにそれ自体で存在すると

いったようなものではありません。そのもの自体のことであり、それを如是体といいます。

〈如是力〉─── 体のあるものは、かならずそれにふさわしい力をもっています。朝顔の種

は、発芽してつるをのばす潜在力をそのなかにひそめているのです。これを如是力といいます。

〈如是作〉─── 力があれば、それはかならずいろいろな作用をおこします。朝顔の種のな

かにひそむ力は、水を吸って種をふくらませ、皮をやぶって芽をださせ、その芽で土をおしのけて地上

へでてゆくというはたらきをおこさせます。これが朝顔の種のもつ力がありのままにあらわれるときの

作用であって、これを如是作といいます。

 ここまでは、個々の存在の本質とそのはたらきについていってあるのですが、この宇宙間には無数

のものが存在し、したがってその力の作用はあらゆるものの間にはたらきあっているわけです。この世

にひとつはなれてポツンと存在しているものはなく、かならずほかのものと複雑につながっているから

です。そこで、例外なくつぎの法則によって行われるのです。

〈如是因〉─── ものごと(現象)がおこるには、かならず原因というものがあります。こ

せは説明するまでもありますまい。

〈如是縁〉─── ところが、原因はあっても、それが何かの機会や条件にめぐまれないと、

結果としてあらわれてこないもので、朝顔の種でも、机のひきだしにしまっていたのでは、いつまでた

っても芽をだしません。夏になって気温がうんと上がり、雨がよく降って土に十分な湿りけが貯えられる

という条件がそろって、はじめて芽をだします。そういう条件を〈縁〉というのです。

〈如是果〉─── 〈果〉は、いうまでもなく、結果です。ある〈因〉がある〈縁〉 に会って、ある状態を

実現したことです。そして、この因がこの縁にあえばかならずこういう結果がでるものだということを

〈如是果〉といいます。

〈如是報〉─── ところが、結果というものは、ただそれが実現したというだけにとどまらず、

かならずあとになにものかを残すものです。たとえば、朝顔の花が咲いたという結果は、人々に「ああ美

しいな」というよろこびを与えます。しかし、ある場合は、自分の期待したほどの大輪が咲かずに、

がっかりすることがあるかもしれません。いずれにしても、ものごとの結果は、かならずあとになんらかの

影響(報い)をのこすものです。これを〈報〉といいます。そして、こういう結果はかならずこういう影響を

のこすものだという法則を〈如是報〉といいます。

〈本末究竟等〉─── さて、以上にのべた九つのことがらは、この社会・この宇宙のなかで、

いつも無数におこっています。しかも、たいへん複雑にからみあっていて、人間の知恵ではどれが原因

でどれが結果だかわからないようなこともおおいのです。しかし、それはかならず宇宙の真理である法

則によって動いているのであって、どんなものも、どんなことがらも、どんなはたらきも、一つとしてこの

法則をはなれることはできません。〈相〉から〈報〉まで、すなわち初め(本)から終わり(末)まで、

つまるところ(究竟して)宇宙の法則のとうりになる点においては等しい(等)というわけです。

〈本末究竟等〉というのは、そういう意味なのです。

 宇宙のあらゆる存在と、そのはたらきと、それらのお互いどうしの関係は、こういう法則のうえに成り

立っているのだと観じることが〈諸法実相〉をとらえることなのであります。

縁起観  もっとひっくるめていえば、すべての存在やそのはたらきは、因縁所生(因と縁があって生

ずる所)
のものであり、縁起(因が縁にあって起こる)であるということができます。これがお釈迦さま

のさとりの一大根本であり、すべての教えはここからでているといっても過言ではありますまい。これを

縁起観といいますが、〈諸法実相〉の教えもこの縁起観が根本になっていることは、いうまでもありませ

ん。つまり縁起観というものは、これから仏の教えを学んでゆくうえに、またこの世に生きてゆくうえに、

いつも考えかたの根底においていなければならぬ大真理ですから、よく心に刻んでおいてください。

一念三千 ところで、この十如是は宇宙観のありとあらゆる存在や、そのはたらきに通ずる大真理であ

りますが、これをわれわれ人間の生きかたというものだけにしぼって、かんがえてみることにしましょう。

 いったい人間という存在はどんなものか── お釈迦さまはこれを、上へむかっても無限の、

可能性があり、下へむかってもまた無限の可能性がある存在であると断じておられます。それをわかり

やすく説かれたのが、十界互具の説です。

 普通の人間界を中心として、下へ落ちてゆけば、修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界へ、正法をきかな

いままで上へ上がれば天上界へ、正法をきいて上へ上がれば声聞界・縁覚界・菩薩界へ、そして菩薩

の修行によって最高無上の悟りを得れば仏界へ── と、下へ落ちてゆく可能性をも、上へ上がってゆ

く可能性をも、両方そなえたのが人間であるというのです。 このことをしずかに深く考えてみますと、

われわれ人間の本質というものが、胸に落ちるようにわかってきます。すなわち──すべての人間は

平等な存在であることは、《無量義経説法品第二》のところでのべてまいりました。ところが、現実の

相として現れているものは、賢い人・愚かな人・心美しい人・心いやしい人等々じつに千差万別であり、

その住している境地は地獄界から仏界にいたるまで、はなはだしい上下の相違があります。

 そこで、人間本来平等であるということも真実であるけれども、現実のあらわれにおいて不平等である

ということも真実であります。したがって、人間をみるときには、この平等・不平等の両面からみなけれ

ば、その本質はつかめないわけです。 ところが、もっと深く考えてゆきますと、その不平等というものは

けっして固定したものではなく、つねに流動しているものだということがわかってきます。すなわちその人

のもっている仏性(因)がある条件(縁)にあえば、心いやしい人も心美しい人にかわることができ、

逆に、不善の心や行為という因が、ある縁にあえば、幸福に満ち満ちた人がたちまち苦悩のどん底に

落ちこむこともありえます。地獄界にいる人が天上界に上がることもできれば、逆に、天上界から地獄

界へまっさかさまに墜落することもあります。

 しかも、それは、一にかかってわれわれの心の持ちかたによるものであって、心の持ちかたさえかえ

れば、どの界へもいくことがでるのです。そういう可能性を、人間は平等に持っているのです。ですか

ら、目のまえにみる不平等は、けっして固定した不平等ではなく、自由に流動させることのできる不平

等です。つまり、〈不平等をどうにでもつくることのできる可能性をみんながひとしく持っていると

ころに、人間の平等さがある〉
ということもできるわけです。

 そのことを、天台大師は〈一念三千〉ということで表現されたわけです。どうして〈一念三千〉という

かといいますと、われわれの一念のもちかた次第で、三千(無数の段階と種類)の世界を自分でつくる

ことができるからであります。くわしく説明すれば、つぎのとうりです。

十界互具 すべての人間の心のなかには、仏になる可能性もそなえていますし、地獄に落ちる 可能性

もそなえています。仏界・菩薩界・縁覚界・声聞界・天上界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界の

十界のどこへでもいける〈因〉をもっているのです。

 それが、人間界にいる人間だけではなく、地獄界にいるものでも、仏界にいるものでも、やはり十戒の

どこへでもゆく可能性(因)をそなえているのです。この、十界の人がそれぞれお互いに十界へいく可能

性をそなえていることを〈十界互具〉といいます。

 ここで、あるいは疑問がおこるかもしれません。すなわち、すでに仏になった人間も、地獄

へ落ちる可能性をそなえているのであろうか── という疑問です。仏はすべての迷いを去り、

執着をはなれ、十悪をのぞきつくした人ですから、その仏に地獄の因子があるというのは、たしかに

矛盾のようにおもわれます。しかし、それは矛盾ではありません。

 仏にも悪の因子は内在しているのです。しかし、その悪の因子を善に変えてしまったのが仏なので

す。このことを学問的にいえば、〈止揚〉というむずかしいことばになりますけれども、とにかく、悪とか

煩悩というものを善のあらわれとしてしまわれたというわけです。それで、仏の十善といっても、つまり

〈十悪を行じないこと〉であって善の一つ一つの項目というものは挙げられていません。天台大師は

このことを説明して〈如来は修悪を断じ、ただ性悪の在るあり〉といっておられます。仏は悪を心身

に行うことを断絶しておられるのであって性(性質すなわち内在する因子)としての悪はもっていら

しゃるのだというのです。

 これは、まさしくそうあるべきであって、もし仏の心のなかから〈悪〉とか〈煩悩〉とかいう因子が、

すっかり消滅してしまっているならば、もろもろの人間たちの心のなかにある〈悪〉〈煩悩〉がわかる

はずがありません。わからなければ、それを救えるはずまありません。仏の徳とか慈悲というものは、

けっして赤ん坊のような天真らんまんなものではなくて、すべての悪や煩悩をもハッキリと見とおしたうえ

でそれを包容し、善へと導いてゆくという、大きな智慧のはたらきなのです。

 これで、仏・地獄や修羅の因子があるのだということは理解していただけたこととおもいます。ただ仏・

菩薩はその〈因〉に芽をだす〈縁〉を絶対に与えないだけのことなのです。それどころか、逆に、その

〈因〉に慈悲という〈縁〉を与えて、そこから衆生済度の教えを発見されるわけです。こういうふうに、

〈因〉は、与える〈縁〉しだいで、どんな〈果〉へでも導いていけるわけであって、これが〈十如是〉の教え

の神髄ともいえましょう。

百界千如 ところで、われわれの心のなかにはこの十界のどこへでもいく可能性がそなわっているの

ですが、その可能性は〈十如是〉の法則にしたがって存在し、かつはたらくことは、もちろんです。です

から、十界の人々の心にそれぞれ十界があるから、十掛ける十で百界があり、それが十如是の法則に

従って存在し、はたらくとなると、その心のつくりだすものは百掛ける十で、千というたくさんの世界にな

るわけです。

三世間 ところが、ここまではまだ個人の心の問題だったのですが、世間をはなれた個人というものは

ないわけですから、心の問題も世間と関係づけて考えなければなりません。仏教では、世間というもの

を三通りに考えて、三世間としています。出典ニよって意味と解釈がいろいろちがいますが、常識的には

つぎのように解すればいいでしょう。

 第一は、〈五陰世間〉といって、さまざまな身体と心をもっている人間がならびたって存在し、それぞれ

影響をあたえあっている状態(個人を中心とした人間関係と考えてよい)

 第二は、〈衆生世間〉といって、個人のあつまりがいろいろな姿でならびたって存在している状態

(普通にいうさまざまな社会と解してよい)

 第三は、〈国土世間〉といって、衆生の住んでいる国土が、いろいろな姿でならびたっている状態

(普通にいう世界。もしくは自然界とも解される)

 われわれは、こういう三世間をつくって、よかれあしかれ共存していることは、まぎれもない現実であり

ますから、さきにのべた千の心のはたらきは、この三世間にひろがるわけで、千掛ける三は三千という

ことになります。そして、われわれの心に瞬間的におこる念(一念)のなかにさえ、この三千の縦横の

関係がすっかりふくまれているというわけで、すなわち〈一念三千〉ということになるのです。

一念三千法門の功徳 ところで、この〈一念三千〉ということは、〈十如是〉の教えをくわしく解説する

ために天台大師が展開された理論なのですが、これを理解しただけでも、われわれにとってはじつに

大きな功徳であるといわなければなりません。

 第一に、この教えによって、われわれ人間というものは上へむかって進歩する無限の可能性を平等に

与えられている、すなわち仏にまで向上する因子をみんながもっているということがハッキリわかりま

す。ですから、われわれの人生には、じつにおおきな力強い希望が生じてくるのです。また、その反対

に、下へ墜落する可能性も十分にあるのですから、すこしでも心を美しく、善い行いをしていこうという

決心を固めざるをえません、これが第一の功徳です。

 つぎに、われわれ人間および宇宙の一切のものは、全体をはなれて個いうものはなく、すべてが網の

目のようにつながっているのだから、自分だけが救われたのではけっしてほんとうの救いには

ならない── ということを、この教えによってまざまざと悟ることができるのです。

これが第二の功徳です。

 つまり、この教えによってこそ、自分も仏になれるのだということがハッキリわかり、勇気がわきおこり

ます。また、どの人も仏になれる素質があるのだということがわかれば、人間の尊厳を実感としてしるこ

とができます。と同時に、ひとを救う道はそのかくれた仏性を発見させてあげることだということもわかり

ます。すなわち、われ・ひと共に救われる道がここに明らかにされたのです。

 日蓮聖人も《守護国家論》で「二乗は自仏を見ざるが故に成仏なし。爾前の菩薩も亦、自信の十界

互具を見ざれば、二乗界の成仏を見ず。故に衆生無辺誓願度の丸も満足せず。故に菩薩も仏を見

ず、凡夫も亦十界互具を知らざるが故に自身の仏界顕れず」と喝破しておられます。 自仏というの

は、自分のなかにある仏の因子です。仏性です。仏になれる可能性です。爾前の菩薩とは、法華経

以前の菩薩ということです。

 満足せずというのは、その願をすっかり成就することができないという意味ですあとは説明の要は

ありますまい。まえのわたしの解説とひきくらべながら、よく味わっていただきたいとおもいます。

事の一念三千 ところが、〈一念三千〉の法門も、理論のうえでわかっただけでは、その価値が満

足に発揮されたとはいえません。それをすべての人が実践にうつさなければ、世は救われないのです。

そこで、日蓮聖人は〈事の一念三千〉ということを宣言さされたのです。〈事〉というのは、厳密にいえば

むずかしくなりますが、つまり〈理〉が頭のなかのことであるのに対して、実際にものごとにあらわされる

こと、いわゆる具体化されることをいうのです。ひとくちにいえば〈実践〉ということです。

 まず、自分の尊厳さを発見する。ひいてはすべての人々の尊厳さを発見する。すべての人々が仏にな

れる素質をもっていることを発見する。そのすばらしい発見を土台として、世界中の人間みんながそれ

ぞれの尊厳さを認めあい、仏になれる素質を磨きあって、寂光土建設にいそしむ── これが、

日蓮聖人のいわれる〈実践〉であって、すなわちそれは釈迦無尼世尊の本懐にほかならないのです。

われわれもその本懐に随順して、あくまでもこの教えを強力に実践していかなければなりません。

 人類のすべてが仏となる── これが理想ではありますけれども、現実の問題として、それはあまりに

も高遠すぎます。いまの段階においては、すべてが菩薩となることを、まず目指すべきでしょう。

〈人類総菩薩化〉── この大運動を、いまこそ地球上に展開しなければな りません。これがわれわ

れ仏教徒に課せられた使命であると確信します。

 以上いろいろとのべたことによって、〈諸法実相〉〈十如是〉の教えの真意が理解していただけたこと

とおもいます。