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        沼田城最後のお庭番柴田長次郎

              平成19年6月1日


 柴田長次郎の生涯、沼田城お庭番。柴田家の最後の人、沼田城は取り壊しになる。長次郎は明治になってから柴田家に養子になり〔長次郎ノブと結婚〕養父が時々長次郎に、沼田城内で切り殺された青木の妻を助けた事、その時の遺品を届けるように長次郎に遺言する。其の事が前に書いた。

 青木平八郎切り殺された時の、青木平八郎の妻市の方を、津久田村の青木家に逃したことを詳しく話し、沼田城取壊してから数年立ち過ぎた今日沼田にいても生活も成り立たない。

 お庭番としてやらなければならない事、其れは青木平八郎の遺品がのこっているので、津久田村青木市に、平八郎の遺品を届けるように、養子長次郎に遺言した。〔明治
20年ごろ〕

 長次郎は養父死後、後の整理を済ませて、津久田村を訪ねて、市の住む津久田村北原に将来住むことになる。柴田長次郎はやはりお庭番。津久田に来て良く調べて、市と合って津久田に住むために相談土地や建物の手配当時旅人を止める宿屋をつくった。

 のぶに宿屋を任せて沼田に戻り明治の時代が平穏になるまで沼田で活躍した。

 大正になって、のぶがやっている宿屋に戻り、のぶの宿屋それに居酒屋を手伝った。はじめは誰とも話しなどしない近所人は長次郎の事を全く知らなかった。利根川に魚取り、大正時代はあまり村の人との繋がりは無かった。


 昭和に入りだんだんにお庭のことなど話し始めた。何所かに行って 書画骨董などいじり盆栽は特別前に書いたように二人に教えた。 大正8年市が逝く、其の後娘シゲに昔のことを語るようになった。シゲは母市が遺言沼田父の墓の件もあり、夫奥次郎が大正13年に死んだ、死後、長次郎とよく話などしていた。

 養父の葬儀や後かたづけを済ませて沼田を後に、津久田村に落ち延びた市の方を訪ねた〔明治20年ごろの事〕 津久田に落ち延びていた、市、当時12の宮にお参りに来る人や其のお宮は津久田村より深山を抜けてこんろく福島に通ずる道、に成っていた、旅人や今の渋川市に遊郭があり人通りの多い所であり其の人たちを相手にうどんやそばを、作って茶店商いをしていた。

 娘も大人になり婿を貰った頃の事でした。長次郎が訪ねてきたことに始めの内は中々本当のことを明かさなかった。

 しかし娘や婿に内緒で、話し合って直ぐ近くに長次郎の済む所を与え其の後〔明治
35年ごろ〕隠居した。店の権利は長次郎にゆずり、長次郎、のぶ、と津久田村に住み着いた。

 大正
8年に、市は亡くなった。前文に書いた通り遺言にて、シゲは父の墓を知り墓参り しなければと思いながら、なかなか行くとなると行けない。

 倅に後を譲りたいが色々の事などあるうちに〔大正
13年に〕夫奥次郎が亡くなる。行く機会がなかった。

 そのころ鉄道工事が漸く水上まで大正
15年に全線が開通し、昭和と年号が変わる。叔母さんは隠居をした。

 昭和4年
2月に青木良明が生まれるた。数え二歳よりお祖母さんと寝たのでどちらといえば祖母さん子であった。数え5歳から兄と寝る。

 祖母さんと寝た
二三歳の頃、沼田城につれて行かれた。今でも当時の事をよくおぼえて おります。

 柴田長次郎さんは
12宮にお参りに来る人を相手に、市が店を開いた所より二三百メートル北に大きな桜の木があった所に店を出し、始めは旅篭をはじめた。旅籠の仕事は長次郎の妻のぶが行っていた。

 大正になってから長次郎が来たので市は仕事を長次郎にまかせて隠居した。

 そのあと居酒屋として多くの人が酒をのみに来ていた。

 其の長次郎さんが私(良明)の家に来て盆栽のよしあしや盆栽の見方、本当の盆栽はこの様なのが
番良いのだよと持ってきて見せてくれた。

 私の盆栽の研究植物についての知識は、長次郎さんから習得したことがほとんどでした。私には盆栽の話を通して、何でも話してくれた。

 私の夢はそのころより膨らんできて、五葉松の芽刺しや接木など盛んに行いました。父の死んだ、昭和42年、葬式に長次郎さんが言った。「これで役目が終わった」と私にはっきり言いました。

 数日後、長次郎は良明の家に来て「親戚の家が勢多郡宮城村にあるのでそちらに行く」と言って引越して行ってしまいました。


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