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平成15年9月15日
次男・勝正の不思議な死に方

        

私の次男である勝正は、実に不思議な死に方で亡くなった。村から「土地取り」
を仕掛けられたのが分かった、今になって、はじめて勝正の死は何が原因であっ
たかを知りました。当時のことを詳しく書いて見ます。なにかミステリー小説の
ようです。


勝正は昭和五十七年十一月五日朝の二時、伊香保から榛名湖に向かって七曲がり
になった場所から別れ、工事道路を約150m入った地点で自動車の中で死亡してい
ました。
警察では、排ガス自殺ではないかとの見方をしていた。しかし「同じようなこと
が二年前にも榛名湖畔で起きている」とも言っていました。

死亡した直接の原因は、医師の診断では急性ガス死となっていた。その医師に詳
しく聞いたところ、「このような死に方はガスだけを五分ぐらい吸った時、そし
て肺の中がガスだけになったときに起こるのだ」とのことでした。
その後、私は何年も調査をしました。その時の状況、その前の本人の行動などに
ついて、これから詳しく書きます。

勝正は、昭和五十六年の年に高校三年生となり、翌七年三月に卒業しました。卒
業する前の年の十月、赤城村運動会が催され、各地区対抗のバレーボール大会が
行われたとき、この事件は、はじまったのだと思っています。

大会では私たちの区である三区が優勝しました。その夜、三区集会所においてお
祝いの慰労会が催され、三区の村会議員三人も出席していました。

これから述べることは後になってから勝正が話したことです。集会所での慰労会
のあと、斎藤光雄村議(当時)の家に来るようにと言われ、光雄宅に四、五人で行
きました。そして光雄の招待で酒やビールが出て若い者達に飲ませたそうです。
飲め飲めと言われて勧められ、ついつい飲んでしまった。しかし飲んだあとで
「斉藤光雄の家で飲んだことは、どんなことがあっても絶対に言わないこと」と
硬く口止めされたと言いました。

「勝正ちゃんは津久田の家のほうに行くのか、それとも渋川の学生寮に帰るのか」
と聞かれた。その時勝正は「渋川の寮に行く」といって光雄の家を出てバイクに
乗りました。敷島橋のたもとで10分位休んだあと、敷島橋から渋川に向かいまし
た。

しばらくして長坂の上の広いところに出ると警察のパトカーが後をつけてきた。
どうもなにか待っていたかのようであり、渋川署の中に入るのかと思ったが入ら
ない。どうも変だなと斎藤外科に入る道で曲がってみた。やはりパトカーはつけ
てきた。それなので踏切りがあったが一時停止もしないで150m位走り、桑原の中
に隠れたそうです。

30分位経ったので桑原から出たところ、待っていた警察官につかまり飲酒運転と
して尋問された。しかし何処で飲んだか言わなかった。

親である私に警察で来るようにとの連絡があり、私はすぐ渋川署に行きました。
警察では勝正に、「どこで飲んだのか」と飲んだ場所を聞いたのだが、どうして
も言わないので困っていると言う。そして未成年なので今夜は親元に返すと言い
ました。

突然のことなのでなにも内容が分からないまま家につれて帰りました。その後、
勝正にいくら聞いても何処で飲んだのか、また誰と飲んだのかしばらくは全く言
いませんでした。

どうにか学校を卒業し、前橋市総社町の日進電気に入社しました。入社前の1月
頃かと思いますが、家庭裁判所から本人宛てで、「保護者同伴で出頭するように」
との命令があり、審判に行きました。「本人が酒を飲んだ場所を言えば少しは罪
も軽くなるのだがどうしても言わない。このため三ヶ月の保護観察とする」と言
い渡されました。この保護観察のことは本人と保護者以外には言わないと裁判所
も約束をした。

[学校にも知らされないこのことが後になって、なぜ車の板金屋の社長に知れた
のか大きな疑問です。]
やがて四月になり、保護観察も解けて前橋の日進電機株式会社に入社し、その後
は会社に何事もなく勤務していました。
   
八月の上旬、勝正が突然私に「親父さん俺は殺される」と言い出した。私は、誰
に殺されるのか。そんなことを言う人を連れて来るようにと言いました。そうし
たら八月下旬、そのようなことを言う人はこの人だと連れてきました。それは渋
川で自動車の板金をしている会社の社長でした。

そのときその社長に、私が、どうして殺されるのかと問うたところ、「子供に新
車を買ってやらないからだ」と言い、「二年程前に車を買ってやらない人が死ん
でいる。勝正君も車がほしいために必ず自殺する」と、脅し半分に言いました。
勝正に「自動車(新車)がどうしても欲しいのかと」言ったら、「自分で働いて買
うから今すぐでなくともよい。もう貯金が出来てきたので」と欲しがる様子もな
かった。私は「勝正に自殺などするな」と言った。

そのとき初めて勝正は酒を飲んだときのことを話し、また保護観察になったこと
で板金屋にいやみを言われたと話しました。その後は特に変わった様子はなかっ
たです。
九月末だったか帰宅し、「日光のいろは坂で追突された、医者に見てもらった」
と言い、その後一週間に一度位は医者に通い、そして「いくらか痛いがたいした
ことは無い」と言っていました。大分良くなっていたと思います。

十一月二日か三日の夜のことです。十時半ころ、 私たちはもう寝ていたのです
が「テープレコーダーを取りに来た」と帰ってきました。組み立ててあったセッ
ト一式を解体し、車に積んで持っていきました。「気
をつけて帰りな」と言って返したが、その夜が勝正との最後でした。

十一月四日、勝正が亡くなった前の日のことです。
午後6時から役場二階で会議があることになっていました。出かけようとした時
に電話が鳴ったので出てみると、前橋の女性から「勝正ちゃんおりますか」との
電話でした。私は「勝正は渋川にいますよ」と言ったところ、その女性は「渋川
に何度電話しても勝正ちゃんは出ない」との返事でした。そのころ、家内の文子
は渋川の学生寮に食事つくりに行っていました。私は女性に対して「渋川の勝正
に今一度電話するように」と言ったところ、「勝正ちゃんがおかしいの」とひと
こと言って電話を切りました。

夕方からの役場での会議では、村議の斎藤光雄、狩野晃男、狩野重男、それから
農業委員の狩野友二、私こと青木良明が集まりました。来年県議に立候補する予
定の角田登の立候補を推薦しようとの話し合いであり、このことで十一時頃まで
役場にいました。後になって警察は私に「前橋の女性は警察には[青木さんに電
話をしたのは9時ごろです]と言っている」という。。

翌十二月五日午後二時頃、渋川警察署からすぐに来るようにとの電話がありまし
た。警察署に行くと「青木勝正くんのお父さんですか。勝正くんかどうか確かめ
てもらいたい」と言われ、場所を聞いてすぐに現地に行きました。もうすでに検
死等が済んだあとで、立ち会った警察官が今朝二時のガス死ですと言い、伊香保
の診療所の医師が立ち会ったので、詳しくはこの医師に聞くようにとのことでし
た。

遺体、それから車なども片付けても良いと、言うので勝正を車に乗せ、榛名七曲
から自宅に戻りました。

勝正が死んだときの現場での車その他の状況を述べます。マフラーの中にビニー
ルホースを差込み、このホースが後ろ座席の窓から室内に入れてありました。ホ
ースの長さは約十mでした。ドアの鍵は、運転席の座席と助手席の間にあり、座
席の右側ドアだけは鍵が掛かっていないで、それ以外のドアは鍵が掛かっていま
した。

ホースの中はきれいでした。その山道を通るダム建設の人が見つけてくれたので
すが、発見された時には、エンジンが掛かっていたと言いました。助士席のドア
を破って戸を開けたが、運転席のドアの鍵はかかってなかった。目張りなどは自
動車の中からも外からも全く何もしていなかったのです。

家に帰ってからいろいろと考えたが、渋川の車の板金屋がどうしてもおかしいと
思い六時半ごろ板金屋を訪ねました。
未だ勝正の死んだことなぞ知らないはずなので死んだことは話さないで聞いてみ
ました。奥さんがいたので「昨夜勝正の処に電話しなかったか」と質問した。奥
さんが言うには「主人は九時半ごろから十時半ごろまで電話をしていた。間違い
なく勝正ちゃんのところだった」。

さらに奥さんは「社長は、『福島から友達が来るので明日の朝までには東京に行
かなければならない。勝正ちゃんに会ってから東京に行く』と言い家を出た」と
言う。
「10時半から十一時頃」未だ東京から戻っていない」

さらに、私が「何しに東京に行ったのか」と聞いたところ、奥さんは「拝みに行
くのです。一生懸命拝んでいるのだ」との答えでした。よく拝みに東京に行って
いるのです。帰ってくるのはいつか、「帰ってくるのは今夜遅くか、あるいは明
日の朝だと思う」と言った。昨日からのことを、このように、奥さんから聞きま
した。

家へ帰って勝正の葬儀の準備をしました。翌六日、午後一時ごろ伊香保診療所に
行き、死亡診断書をもらうと同時に、医師からガス死の内容について細かく聞き
ました。生きているような状態で死んでいた。これはガスだけを五分ぐらい吸う
と呼吸が出来なくなってそのようになる。人工呼吸やハリをしてみたが時間がた
っていたのでダメだったとのことでした。

どうも変な死に方のようにとれるので聞き返してみると、「ガス死には間違いな
いです」と言ったきりでした。医師には、警察に協力してよく調査してくれるよ
うにお願いした。

また、同時に自分なりに勝正の死ぬ前の日のことや車の中を良く調べてみました。
一つ不思議なことがありました。文子が食事作りに行ったときに使った包丁が車
の中にありました。

勝正がホースを何処から持ってきたのか、考えつく限りのスタンドに当たってみ
ました。いく月か後、あるスタンドをみつけました。そこの人が言うには「警察
に聞かれたけれどいわななかった。そのような事件に関わるのは嫌だからね。ホ
ースは私のところで盗まれている」と云うのです。「私のところにあるので持っ
てくる」と言いましたら、いや要らないと言いました。

この時刻のころのことを会社に聞きました。「勝正から、四日は休ませてほしい
と連絡があり、四日は休んだ」とのことでした。それから文子が学生寮に食事を
つくりに行ったときには勝正はまだ寮にいたそうです。文子が帰るときは、もう
勝正は車で出て行ったあとでいなかったとのことでした。

勝正は五時三十分ごろ、車に燃料を入れるために出かけました。伝票から調べる
と燃料を入れたのは吉岡村のスタンドでした。このスタンドで訊ねると勝正を良
く知っていると言い、「七時ごろ燃料を入れに来た。そのとき、これから何処へ
行くのかと聞いたら、友達がいるので寮に帰ると言った」、「どこといって、変
わったことなぞ無かった」と言いました。

「勝正はどのようなものを着ていたか」と訊ねました。「着ていたものは寝巻き
だった。(死亡した時に着ていたものは体育の服装だった)前にも寝巻きで来た
ことがあるので良く覚えております」と言う。三階の寮生に聞くと、「その夜十
時半ころ三階に干しものを取りに来た」と言いました。

渋川の上郷の区長が上郷会館の見回りに寮のまえを通ったとき、勝正の車があっ
たと教えてくれました。しかし、勝正の隣の部屋の生徒は「勝正君はいなかった」
と言いました。二階の生徒は「勝正君ははっきりと九時ごろ電話していた。長い
電話だったので良く覚えている」と言いました。
燃料を入れに行ったときにいた同級生に聞いたところ、「勝正君をいつまで待っ
ていても来ないので七時半ごろ帰った」と云う。

警察の調査はどうなったかと二ヶ月ぐらいたったとき渋川署に行きました。警察
では「調査したがやっぱり自殺だと思う」と言います。ひとつ引っかかるのは、
二年位前に同じような事故があったと警察から知らされたことです。しかし「こ
れ以上調査は出来ない。警察もそんなに、ひまでは無い」と言われてしまいまし
た。

勝正と似た死に方をした例を調べよう。このようにヒントがはっきりしたので、
その前後に同じような事故で無くなった人を探しました。
一・二ヶ月探し、ようやく小野上村で牛を飼っている家の長男で、角田幸平さん、
当時二十四歳の方をみつけました。早速当時の情況を角田さんのお父さんにお聞
きしました。驚いたことに、まったく私の事件の場合と同じ状況だったのです。

二・三回電話などで聞きました。まず車のことから始まりました。長男が牛を飼
ってくれるのですっかりゆとりができ、このため来年の小野上村議選挙に立候補
しょうと親子で話し合っていたとのことです。この矢先に事件が起きたのです。
スポーツでは、村で 子どもはいつも選手として出場し、友達も多く、自殺など
するようなことはないはずです。しかし警察では自殺だと言っている。そのよう
なことがあったので村議に出ることも諦めたそうです。

お父さんが言うには、幸平さんは中古の車に乗っていた。近所に二つ年上で渋川
の整備会社に行っている栄君という男がいて、幸平のところに車を買うようにと
良く来ていた。幸平も買いたいようだった。しかし親の村議選があるので、車な
どは今すぐでなくとも良いとスッカリ車のことなど話さなくなったとのことでし
た。

このようなことを聞いたので幸平さんの所に来ていた栄君に電話をして、どちら
に勤めているのかを確かめたところ、渋川の板金をしている会社と分かりました。
なんと勝正が殺されると言った会社の従業員でした。電話で確かめました。

角田さんのお父さんは村議戦を諦めたといいましたが、私はこのようなことで挫
けては、と立候補しました。きれいに落選しました。

十何年か後になって、落選した原因が良く分かりました。

角田さんと私は、次のような点がことごとく一致していました。選挙に出ようと
したこと。子供はスポーツが好きで良く選手として出ていたこと。その上、亡く
なったときに多くの人が群馬県中から来たこと。約2,000人もの人がきてくれま
した。渋川工業高校では一年から三年までを学級閉鎖して生徒が葬儀に参列、そ
の他の学校でも、遠くでは富岡や桐生の方までの生徒が参列してくれました。

いろいろと調査をしました。
まず、勝正が死んで十日後でした。私はホースを同じようにマフラーから挿入し、
エンジンをかけてみたのですが、車の中は空気などまったく異常がありません。

それから、どうしても納得がいかないのは、ホースを入れたところに、勝正の手
の跡が無数についていたことです。それから、勝正が病院でもらった薬の袋が、
外から見ればすぐ名前が分かるように運転席の前のところに置いてあったことで
す。免許証も同じようにしてありました。

前に述べましたが、隣の部屋の寮生が勝正は寮にいなかったと言っていたことも
どうしてもおかしいです。この様なことになっていなければ、勝正が新車を買っ
たときには勝正の乗っているクルマを隣の部屋の寮生が貰うことになっていたと
のことでした。

後になってから他の生徒が話したのですが、そのときのことは十年後になれば話
すと言っていました。

車の板金屋の社長や従業員からいろいろ言われたり脅されたりしていたと、勝正
が自分は殺されると言ったころ私に細かく話してくれました。

また疑問の点は、第一は裁判所の判決内容、第二は車が事故に会った車だと言っ
たこと、第三は必ず自殺すると言ったことである。

第一の疑問は、裁判長が、「裁判所ではこのことは未成年なので誰にも言わない。
勝正本人と親の私だけに言う」と約束してくれた。そのことがなぜ板金屋に知れ
たのか。板金屋の社長が勝正の勤めている会社へ「言う」といって勝正を脅した
のだろうか。

第二の疑問は、事故車だと言って必ず事故がおきると断言したことです。死んで
から車の履歴を調査したところ、みんな嘘でした、前に乗っていた人が利根郡の
方で、前橋に移ってその車を手放したので一度も事故など起こした事が無いとの
ことでした。八月に殺されると言ったときにもっと詳しく調べておけばよかった
と残念でたまりません。

第三の疑問は、必ず自殺すると板金屋社長ががいったことです。不思議でならな
い。死んだときの情況から見ても如何しても不自然です。

小野上村の角田さんと勝正、その二人の死んだ情況がほとんど同じでした。その
上、父親が選挙に立候補しようとしたことまで同じなのです、はたして偶然の一
致でしょうか。

そのころ、すでに村では私に対して次から次へと土地いじりを行っていました。
私の山の木が切られたのを知ったとき、はじめて私は土地取りだと分かりました。
そして平成七年三月ごろから土地の調査をしはじめましたが、あまりに酷いので、
だんだんと勝正の死も何かが隠されていたのではないかと思うようになりました。

このことに疑問を抱くようになったので、前に起こった土地を取られたことにつ
いて、次に細かく書いて見ます。