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平成15年10月9日

土地取られ物語り

花が咲き、花が散る

青木 良明
持ち主のまったく知らない間に、その土地の公図を勝手に書き換えてしまう。一言の断りもなく、私のいくつもの土地がなくなりました。
もちろん、公図の書き換えなど、一人や二人で出来るものではありません。今、私はこれに挑戦しています。一部始終を書きましょう。
花が咲き、花が散る。人の浮き沈み。もし何年・何十年・何百年と証拠を明かす者がいなければ、嘘が本当になり、本当が嘘になる。途中が抜ければ、本物が偽物で、偽物が本物となる。そのようなことが現在の赤城村に起こり、そのことを実施してしまった赤城村。もうそのことを正してもどうにもならない。国民生活の基礎とも言うべき土地の公図を変えてしまった。変えた公図が本物で正しいと言う。本物の公図を偽物と言っている。この偽物公図のために私の土地全部が変になってしまった。

私の畠の土地だけでなく家の土地までが、本人の知らない間に人の土地になっている。まったく呆れた話だ。関係ない人に話せばそんなばかなことがあってたまるかと言われる。それほどひどい話だ。

なぜこのようなことが起きたのか。ひとことに言えば、過去の公図をなくして、新しい公図を作る事によって起きたのである。そのためには過去の公図を無かったことにするのである。まるで天災地変の後のようにして勝手に地図を作る。そしてあったはずの公図を変えてしまい、前の公図を無かったものにしてしまった。このことによって完全に公図を変えて正しい物とした。古い公図は無いものとし、あったのが分かっても目安のものだと言う。前の公図は参考図であると情報公開で言うのだ。何年か後には本物が偽物、そして偽物が本物となってしまう。

農地基本台帳を作り、昭和三十年頃からの十ヵ年計画では土地改良を行い、つぎの十ヵ年計画は赤城西麓観光ゴルフ場の開発、つぎの十ヵ年は高速道路のインターを取り入れた野菜基地開発、赤城西麓土地の改良、これらのことを実施あるいは実施途中だったのに、これらはすべて架空のことのようになってしまっている。

昭和六十年一月一日から朝日新聞社が、十回にわたって新聞に連載した「赤城村からの報告」という記事がこのことを述べている。しかし、過疎からの脱却をしようとする計画はことごとく失敗に終わってしまった。

ここでいえることは、土地はすべての基礎であるのに、計画と言って村民にかまわず、指導者すなわち村長・村議・農業委員たちが土地取りに走ったということである。村の職員までも名寄せ帳を自由に書き変えており、これを知って私は驚いた。

このことについて私は平成七年から調査をはじめ、数多くの方々に検討していただき、また一緒になって調査していただいた。警察庁、行政監察庁、行政相談所、税務署、相手、村役場、法務局、法務省、総務省、いくつもの相談窓口、調査機関、人権相談所、農政事務所、等々と歩いた。

また、社団法人「あゆみの箱」に申し立て、これにすがった。「あゆみの箱」の紹介で○○本部長に会い、現在の公図を私の土地のすべてが入っている正当な公図に修正してもらうことを依頼した。

平成十四年十月十九日、東京に行き日本テックの○○本部長と相談した。十月二十九日、「東京あゆみの箱」から赤城村にOO本部長とOO課長とが来た。まず調査は赤城村津久田の「間の田」から始まった。

法務局員および高崎鉄道管理局次長たちによる私の「自宅」調査も始まった。十二月十一日、東京から財務省員が来て赤城村を歩き、このため村が中に入って話をつけるようになった。

このようなことが私以外にもあり、そして現在でもあるとのことである。ハンセン病よりなお酷い話だ。まるで生き地獄をさまよっているのだ。人の世の無情をつくづくと知りました。

1月中旬までに土地周辺の人と立会って話をつけると言ったのに、村からは中旬になっても何の話も無い。このためOO本部長に連絡し、本部長から再度村に電話していただいたところ、今度は一月いっぱいには必ず連絡して話をつけるとのことだった。

平成十五年一月二十二日まで何も変わった事が無かった。一月三十一日を過ぎても、村から何の話も無いのでOO本部長に連絡した。OO本部長からは「二月三日月曜日に行くから赤城村に連絡するように」、また「同時に鉄道の方にも行くので、地図を準備し、それから現在の公図に鉄道用地と自宅の境界を色分けしておくように」と指示された。そして三日後にはまた指示をするとのことであった。

四日、OO本部長から、二月十三日午後三時「後上野」の現地に集合することに決まったとの連絡があり、また同じ連絡が村から文書できた。色々な調整があり、十日に最後調整の連絡があることとなった。十日に連絡があって十三日に来てくれるとのこと、本当に良かったと思う。来たときに話をすることになった。

土地がこのように変わらなければ平和な暮らしが出来たのに、しあわせが一変して不幸に変わる。こんなことは村の彼方、此方にある。村ばかりか各市町村の彼方、此方で起こっているという。不思議な話である。「まだ、青木さんの場合は良いのです。公図上に土地が現実にあるのだから」という人も出てきている。税金を払っているのに土地が無い。権利書があるのに公図に載っていない。公図に無いのだという。その様な人の話も聞いた。

二月十三日、東京よりOO本部長が来る。「上野」の土地の立会いをおこなったが境界の確定は出来なかった。役場では「上野」周辺の人にも今日のことを話していた。立ち会った人がみんな良い感じでなかった。北の方から三百八十六平米の面積に杭を打った。自分の土地に杭を打って何故悪いのかと言い、参加した皆さんにも「はっきりした証拠になるものを見せて下さい」と言ったが何も出さず、ただ「公図がある」と言うだけだった。

役場の八木建設課長も、「話合いにならないため境界がきまらなかった。仕方がない」と言う。OO本部長と一緒に役場に行き、三十九年当時の村議だったと思われる都丸登喜代さんとの約束だという証拠を見せる。また同時にコピーをおいてきた。

本部長を渋川駅に送る。本部長から指示された通り、前村長の下田さん宅を尋ねる。「上野」の件や当時のことを聞く。「良く知っているのは永井昇寿さんかなー」とのことなのですぐに永井昇寿さん宅に行き当時のことを聞く。

当時は建設課という組織は無く、振興課でやっていたとのことであり、「この文章は私が書いたのかなあ」と言っていた。また下田さんは「もしそうでないとしても村で出した文書に間違いない。このことについては、はっきりといえる。この文書を書いたときのことだが、あれは区長だったか誰だったかに、このように書けと指示された。坪数で書いたのには間違いないが、後の数字は書かない。後で誰かが入れたかなあ」とのことだった。

この話から「土地売り渡し承諾書」は村の出した文書だとはっきりした。そうなれば、その当時に測量した図面が村になくてはならない。では、その測量の前に使っていた道路図は無いのかと尋ねたところ、下田さんは「名寄せ帳を寄せた図面で旧版図である」と言う。そして「その地図が無くてはならない。現在の建設課が保管していると思うので建設課で聞いてくれ」とのことだった。

十五日に私は兄の家を訪ねた。兄さんは「上野の土地について証言はできる。しかし証言するには、売主の所に言って良く聞いてからが良い。角田十栄さんはまだ話せば分かるのではないか」と言うので、その足で角田さん宅を訪ねた。

角田十栄さんは「上野の土地売買に立ち会った。其の時の状況だが、境界については当時の図面は現在の旧版図であった。それから当時の道路も、変わってはいるが思い出せる」とのことだった。

これは私が話した通りだった。当時の村議と計り、後々の問題がないようにしたのである。坪数で約束したことや、図面・旧版図のことなどの話がすべて村で話した通りだった。前村長の下田さん、当時の職員の永井さん、売主の長男で当時立ち会った角田十栄さん、これらの方がすべて話してくれた。これらはテープにとってある。

調査するにつれて色々な事が分かってきた。土木課長が前にとんでもない嘘をついたことがあった。それは、総務省に相談した時のことである。総務省の担当の人から「この問題については、青木さんと話し合うようにと村に電話した。二三日中に村から話がくるから村と話し合って欲しい」と言われ、村から話がくるのを待った。しかし一か月待っても村からは何の話もなかった。

総務省に行って聞いたところ、村からは「青木さんは納得した。話合いが済みました」との返事だった。全くでたらめで、そのような嘘を平気で言うのが八木建設課長である。人権が叫ばれる今日、なんで立会いもしないで地図を変えたのか。

山で話したように、私とはただの一度も立会いがない状況ですべて公図を書き換えた行為について、二月十八日、私は本部長に文書を送った。二十日にになって本部長に電話したところ、二十四日、本部長が来てくれることとなった。このため、二十四日までに文章を作っておくことにした。

二十四日朝、兄とともに渋川駅で本部長を迎え、売主の長男でよく知っている角田十栄さん宅を訪れ、「北上野」の山を売った時の事を尋ねた。立ち会ったこと、旧版図で売ったこと、それから現地を見れば今でもわかるということも話してくれた。

家に帰って昼食をとった。午後、役場に電話をしてから話し合いに行く。役場では建設課に行く。十三日に八木課長と立会いをした後の話合いの時に約束した件について話し出した。

私は約束通りにしたのに、村の対応は違うではないか。文書前に話したことと違う。また証人をと言うので、一人お願いして村に行ってもらった。しかし村では私の出した文書の存在もつかめないというずさんなことだった。

今度このようなことのない様に強く言った。次回の約束として、現地で青木の言うように土地を測ること、村と青木と立ち会って測ること、測ってから次の行動をとることにする。

終わって「上野」の現地に行き、現地の杭が抜かれていたのを見る。兄を家まで送り家に帰った。「話し方があなたはきつ過ぎる」と本部長から注意される。今度のこともあったので注意は良く聞くことにした。

新重郎さんが来たので本部長に紹介する。本部長は言葉を残す。動かぬ牛を動かすのにはどうしたらいいかと聞くと、新ちゃんは尻に火をつけると答えた。「そのとうり」と言い、本部長は帰った。本部長を渋川駅まで送る、

二月二十五日午後六時頃、本部長から電話があった。「三月三日に立会いをしたい。青木が土地を測る」という約束の連絡が村から本部長にあったとのことである。今度は村がいくらか動き出したようである。二日には本部長に来ていただきたいと連絡する。

春の訪れ、木々芽吹くか。

二月二十六日に本部長から電話があった。「役場ではいくらか動き出したと十栄さんにも連絡しておくように」とのことだった。翌朝すぐに連絡し、夕方、本部長にその旨を連絡した。本部長から三月三日にこちらにくるとの連絡があったが、その後役場から三月二日に立会いをするとの連絡があり、直ちに本部長に連絡した。

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