私の退屈な入院生活に変化の兆しが見え始めたのは、入院から一週間程経った頃だった。
ある夜、奇妙な気配で目が醒めた。
大きな窓から見える中庭は、白い月の光で真昼のようだった。病室の窓側も月光の反射で明るく、その中に異様な風体の弥生ちゃんがいた。
上半身はいつもの伸びきったトレーナー、その上にひと昔前風の赤い花柄のサマードレスのようなものをちぐはぐに着、ショートカットの髪には白いシフォンのスカーフを巻き付けていた。唇にははみ出すほど赤い口紅を塗り、足元は裸足。
そんな姿で、ぼんやりと窓の側に佇んでいたのだ。
こんな真夜中に何をやっているのか?
時計は一時四十何分かをさしていた。
放っておけばいい、相手は気がふれているのだ。背を向けて眠ろうと、もう一度彼女を見てぎょっとした。
左手首が真っ赤な血に染まっている。
「弥生ちゃん ! 」
思わず駆け寄ってはっとした。
弥生ちゃんの顔。
ほの薄暗い光に照らされた横顔。
美しいのだ。
いや、昔は美しかっただろうと思わせる、と言った方が正しいかもしれない。全く手入れされていない眉毛も、少し肉のつき始めた顎も、その不思議な美しさを損なうことはできなかった。
「弥生ちゃん ! 」
もう一度小さく叫び、彼女の左手を掴んだ。
ぬるり、生温かい血の感触を予想していた私は、あっと拍子抜けした。
赤い血かと思ったのは、塗りたくられた赤い口紅だったのだ。
真夜中の悪戯にしてはあまりに悪趣味ではないか?
私はため息をつき、乱暴に彼女の腕を放した。
弥生ちゃんは、空気の抜けた人形のように、くたくたと床にへたり込んだ。
その瞬間。
ふと、目の隅に小さな影が横切った気がして、つい窓の外を見た。
咲き乱れる桜を透かして、いつもは真っ暗な塔屋の二階に小さな明かりが灯っている。花弁の白い霞んだヴェ−ルに包まれて、そこだけこの世のものではない静謐な空間かと思われた。心なしか空気がピリピリと痛いのはなぜだろう?
そのほのかな灯りを背に、幻のように浮かび上がる白い人影がある。
髪の長い、少女らしい影。
少女の白く、細い腕には光る何かが握られていた。
彼女は私を殺すつもりなのではないか?
咄嗟にそう感じたのは、彼女の手にある鈍色に光る何物かのせいではなかった。
なぜなら。。。なぜなら彼女の瞳は、真直ぐ射るように容赦なく私の姿を捉え、私にある感情を叩きつけていたから。
悪意。
敵意。
言葉では言い表せない、闇の世界の支配する負の感情。
弾かれたように私は窓枠の下に隠れた。
パン !
中庭に軽い音が響き、弥生ちゃんのベッドのパイプに足をとられ、私は床に転がった。
暫く静寂。
私は床にはいつくばったまま、今の弾は一体何処に撃ち込まれたのかと恐る恐る病室を見回した。
市川さんは寝息をたてて眠っているようだ。弥生ちゃんも相変わらず床に座りこんだまま、窓ガラスも割れた様子はない。
病院内は、依然として静かだった。
先程の銃声がおそらく録音した何かの再生音で、小型の銃のようなものも偽物だったのだろうと思いつくのに、そう時間はかからなかった。
気が抜けると同時に腹立たしくなった。
ベッドにしたたかに打ちつけた足が痛んだ。
私を挑発するかのように、2発目の音が響く。
リノリウムの床にゆっくり膝をつき、起き上がって窓ガラスを開けた。
春の夜の生ぬるい風が、わっと部屋の隅々に流れこみ、夜風が私の長い髪をなぶり、うなじに腕に絡みついてはほどけてゆく。
風に散らされた、罪のない花弁たちが一片二片床に落ちた。
少女の表情は相変わらず硬かったが、それが敵意のせいなのか元来そういう顔立ちなのか。
わかったのは、遠目にも彼女は妖しく美しいということだけだ。
私の生意気な態度が気に障ったのか、少女は少し顔を歪め、そしてふと微笑んだ。
少女の手に握られた光るものがもう一度私に向けられた時、私の体を今まで感じたことのない恐ろしい戦慄がはしった。
先程とは違う、何事か鈍い音がしたようだが、私の瞳は歪んで美しい少女の微笑から逸らすことができず、身じろぎもできずに立ち竦むだけだった。
少女の姿が窓から去り、殴られたように我に返ると、目の前の窓の右上が一点を中心に大きくひび割れ、夜の闇にぱっくりと不気味な口を開けていた。
夢から醒めた心地で窓を見る。
塔屋の灯りはかき消え、まるで最初からそこには誰もいなかったかのようだ。
「今の、何の音?」
市川さんが起き出した。
「あ。。。」
私はためらった。今の出来事を彼女に話して、信じてもらえるだろうか?
「窓が、突然割れて。。。」
「あらやだ、本当だわ。あんたちょっと看護婦に言ってきてよ」
そう言うと、市川さんはさっさと眠りに戻った。
あたりは再び夜の闇の静けさに包まれている。
壁側の自分のベッドに戻り、ぼんやりと腰掛ける。次々と疑問が湧いては消えた。
あの少女は誰だろう?
入院患者だろう。きっと、あの塔屋は開放病棟の一部なのだ。
彼女の瞳の敵意の理由は?
理由などないのだろう、相手は病人なのだから。
私は本物の銃を見たのか?
一体。。。
少し考えて、ふ、と笑いが洩れた。
まがりなりにも銃で狙われたようなのだ。もう少し冷静でない対応があってもいい筈だろう。
でも、私はいつもこんなふうだし、それはきっと今後も変わらない。
ほつれた髪を高い位置にまとめると、私は看護室へと歩き出した。
閉鎖病棟は東西に長い廊下を中心に建築されている。食堂を真ん中に挟んで、西の廊下側に女性病棟、東の廊下側に男性病棟。食堂の傍に小さなカフェテリアがあり、窓際は季節の鉢植えで埋め尽くされている。小柄な老女が手入れしているのを何度か目にしたことがあった。カフェテリアの向かい側が看護室だ。
上半分をガラスでこちら側と仕切られた殺風景な部屋には、たいてい夜でも数人の看護士が立ち働いているのだが、今夜は妙にひっそりとしていた。
「あのう」
私はカウンター越しに声をかけた。
返事はない。
「どなたかいらっしゃいますか?」
もう一度声をかけたが、やはり返事はない。
諦めて帰ろうと踵を返した背後から、大声が響いた。
「ちょっと待って ! きみ ! 」
驚いて、振り返る。
「悪いけど、あと1ページ ! いや、2ページ ! もしかすると14ページくらい
! もう少しで犯人わかるから ! 」
声の主は推理小説を読んでいるらしく、部屋の隅に備えつけられたパソコンデスクの陰に少年らしい姿があった。
「ああ、その犯人、知ってる」
私は思わず口にした。実際、少年の手にしている文庫のカバーには見憶えがあったし、それより。。。何より少年には、何となく声をかけたくなる雰囲気があった。
「犯人の名前を言ったらきみ、イノチないからね」
少年は真剣に文庫に目を落としたまま言った。
よく命の危険に晒される日だ。
突然少年は、罪のない文庫本を床に叩きつけた。
「あーっ ! ちくしょう、こいつ犯人だったのか ! 騙された !
ちっくしょうふざけやがって! 」
そんな悪態をつく姿もなんとなくユーモラスに思われた。少しからかってみたくなる。
「そんなに悔しいなら、謎解きのとこだけ先に読めば?ちょっと邪道だけど。その方が安心して読めるし、私そうしてる」
「読んだんだよ」
「は?」
「もう7回も読んでんの、この小説。でも、やっぱり犯人を指摘するくだりになると驚いて、腹立つんだよなあ。何?看護士に用?いないよ、オレ、留守番頼まれてんの。急用?」
「ああ。。。あの、部屋の窓がラスが割れただけ。。。」
この少年に詳しいことを話すのは、何となく気がひけた。
「あっそう」
少年は傍らのニットの帽子を目深に被った。TVのアイドル番組ででも見かけそうな顔立ちだ。
「だいたいきみも、今時の若者が本読むなんて孤独じゃない?友達、いないだろ?」
失礼だが当っていた。
「そっちこそ読んでたじゃない、今」
「だってここは精神病院だぜ?気の利いた娯楽なんて存在しない、世間に忘れ去られた空間なんだよ」
少年は立ち上がり、ぶらぶらとこちらへ歩いて来た。思ったより背が高い。
「気付いてた?オレ、いつ、羽須さんに声かけようかーってずっとチャンス狙ってたんだぜ。たまには若者と語らないと、長い入院生活ジジババ相手ばっかじゃやってらんないよな」
「あなた、入院患者なの?」
私は驚いた。少年の様子に病人らしいところは見られない。
「うん、もう一年になるかなあ」
少年は屈託なく答える。
戸惑う私の心を見透かすかのように、少年はにやりと笑った。
「オレ、他の連中みたいな病気じゃないもん」
長袖のシャツの両腕を肘までまくり、ぐっと私の目の前に突き出す。
少年らしい両腕には、おびただしい数の刃物の切り傷があった。言葉を失う私に、少年は言った。
「自傷マニアなの、オレ」
少年はシャツの袖を戻しながら、好みのゲームソフトについて語るほどの軽い口調で続けた。
「別に厭世感とか死にたいとかじゃなくてさ、だって死ぬ時はみんな死ぬじゃん?なんかこう、ぱぁっと血が噴き出す感じがたまんないんだよなあ」
彼の語るところによると、何時でも何処でも自分の体を切り刻みたがる彼に根負けした家族が、少年をこの桜町坂病院に送り込んだのだという。
「きみと同じだよ。また自殺されちゃー困るんで監禁されてるわけ」
少年は私の左手首の包帯に目をやり、悪戯っぽく笑って言った。
「オレ、きみのその手首の傷見て、最初はきみも天使様に呼ばれて来たのかと思ったんだけどさ。きみ綺麗だしね。でも、違うみたいだな」
天使様? !
ここに来て、その言葉を聞くのは2度目だった。
「天使様って?」
私の質問に、なぁんだそんなことも知らないの、といった様子で少年は答えた。
「ホラ、あの塔屋の二階にいるヤツだよ。女みたいだけどね。男なんだってさ。この病院にいる人間ならみんな知ってるぜ」
塔屋の二階。。。
私に向けられた瞳、その精巧に造られた人形のように妖しい立ち姿が私の脳裏に鮮やかに蘇り、胸の奥に小さな予感を残して駆け抜けていった。