国立大学はどこへいく
 
            −「急がばまっすぐ」の先にあるもの−
 
                             内藤 真治
 
 他人になさけをかけることは決してその人のためにはならないから、人にはあまり親切にしないほうがいい−「なさけは人のためならず」ということわざをそう解している若者が多いと聞いて、今時の若い者は‥‥と嘆くのは間違っている。こういう解釈がでてくるのがむしろ当然の時代なのだ。人に親切にしておけば、《回り回って》いつかは自分に返ってくる、だから‥‥などと悠長なことは言っていられない。必要なのは即効性。求められているのは即戦力。「急がば回れ」とか「損して得とれ」も同様に理解不能なことわざだろう。年金制度の将来を考えただけでも、《今さえよけりゃ》になろうというものだ。                 *
 昨年はノーベル賞のダブル受賞で大騒ぎをした。メディアは二人を追いかけ回し、小泉首相は、今後もノーベル賞の受賞者が5人も10人も出るように、とまるで自分の手柄でもあるかのようにご機嫌だった。しかし現実に進めている文化教育行政は、二人の受賞者が語っていたことと正反対なのではないか。  小柴さんは言う。「すぐには利益につながらないような、基礎研究こそが大切」。一躍、時代の寵児になった田中耕一さんの「失敗から生まれた大発見」。 だが今ほど、小学生から大学生にいたるまで、点数に直結しないような勉強を軽んじ、また極度に失敗=間違うことを恐れている時代はかつてなかった。これは先のことわざの「誤解」同様、若者の責任に帰して済む問題ではない。                 *
 群馬大学と埼玉大学との統合問題を初めて報じたのは、昨年1月19日の上毛新聞トップ記事であった。大方の群大関係者にとっても「寝耳に水」のこと。背景にあったのは一昨年の6月、遠山文科相が経済財政諮問会議に提出した「大学(国立大学)の構造改革の方針」と題する文書だった(遠山プラン)。その内容は、
1、国立大学の再編・統合を大胆に進める。
2、国立大学に民間的発想の経営方法を導入する。
3、大学に第三者評価による競争原理を導入する。
を柱とするものであり、これは1997年以来政府がすすめてきた「独立行政法人
化」の路線から、小泉首相の強力な指示によって、事実上の方針転換を遂げた結果である。新聞は、既定方針に沿って独立行政法人化をすすめようとする遠山文科相を、小泉首相が「叱責」して方針を変えさせたと書いた。
 もともと国立大学の独立行政法人化自体が行財政改革と公務員減らし、つまりは〈教育〉予算削減の意図から発していたことは明らかである。「国民のニーズに即応した効率的な行政サービス」(行政改革会議最終報告 97・12)をおこなうための独法化構想であり、国家公務員の定員は「平成13年から10年間で少なくとも10%削減を行うとともに、独立行政法人化等により25%の削減」(閣議決定)をめざすとされていた。ことは大学教職員の身分から学問研究のあり方におよぶさまざまな問題をかかえており、あちこちから批判、反対の声が上がったのは当然である(当初は国立大学協会も)。しかしその後文科省内に「調査検討会議」が設置され、国大協の声も聞きながら検討を進めていた。 それが小泉内閣の《聖域なき構造改革》路線のもとで、独法化にとどまらず民営化をも展望しながら、一挙に大規模な統廃合と競争原理の導入を進めようというのである。ひたすら採算性を重視し、産業の国際競争力強化のみをめざす大学改革は「急がば回れ」や「無用の用」とは対極の考え方に立っている。3月末に東大教授を退官した高卒で独学の建築家・安藤忠雄氏は、学生に「回り道」の大切さを説いたそうだが、国の文教政策はそれを保障しているかと聞かれれば、答えは否であろう。いわゆる「金にならない」学問や実利に直結しない基礎研究の前途は極めて暗いと言わざるを得ない。
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 現在の国立大学に改革の必要性が多々あることはいうまでもない。時代の進展や情勢の変化に応じて、学問研究や学生に対する教育の内容も日々これ新たであるべきだ。しかしそれはあくまでも大学の自主性、自律性のもとで進められるものであり、時の政治権力や財界の都合によってのみ左右されるようなことがあれば、これまた教育基本法にいう「不当な支配」にあたるだろう。
 今年は京大・滝川事件からちょうど70年にあたる。もちろん時代背景は大きく異なっているが、大学自治と学問の自由をかけた闘いがもろくも敗れた原因の一つに、「孤立」があったことは否定できない。当時の大学人は、ともすれば特権意識の中で安住し、広く国民の間に闘いの輪を広げることができなかった。これからの地方の大学は真に「地域に根ざす」ことによってはじめてその存在意義を高めることができるのではないだろうか。
 われわれは、そんな思いをこめて「見解」をまとめ、発表した。

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