市民学習会
第 11 回

戦後教育史学習会ニュース12

戦後教育史を学ぶ

講義:なぜ群馬の高校は別学なのか(抄)

講師:明和短大教授 小野関千枝子先生

371-0026群馬県前橋市大手町3--10 教育会館内        пfax027-235-8876

‘04.5.23             群馬県高校教育研究所発行:編集/橋本寛文


04年5月8日(土)午前9時より、前橋市総合福祉会館文化教養室で標記の学習会が行われた。昨年6月に開講した市民学習会“戦後教育史を学ぶ”は今回で1年を迎えたことになる。今回は小野関先生をお迎えし、「なぜ群馬の高校は別学なのか」をテーマに学習したが、前半の「ライフヒストリー」では、先生がご自分の幼少時代に封建道徳の矛盾に「気づき」、その後一貫してジェンダーと闘い通してこられ、学校という学びの場でいかに意識的・無意識的にジェンダーが蔓延っているかを紹介した。また、後半では、群馬の高校に「別学」が多いのは、戦後の改革期に軍政部の緩やかな指示(含む、民主化の名の下に地域尊重)と県の妥協的な方針(含むネグレクト)と地域や父母の現状維持の心象が相乗効果となっていたからではないかとし、更に、地元の教育関係者にとっては、占領下にあって「3原則」を跳ね返すのは『抵抗』という意識に近いものがあったようにも思えると鋭く指摘した。  

本会は事前に全公立高校の生徒会・新聞部に案内状を送ったが、残念ながら一人の高校生も聴講に現れなかった。全体的な保守化の流れの中で、現在、想像以上に「男女共学」に対する逆風が吹いているのだろうか。残念である。尚、正確を期すため、一部加筆訂正があることをお断りしておきます。


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司会:今日の“戦後教育史を学ぶ”は「教師のライフヒストリーを聞く」の順番で、テーマは「なぜ群馬の高校は別学なのか」です。講師は明和短大で学生部長をなさっておられる小野関千枝子教授です。お忙しい中を駆けつけてくださいました。先生のご紹介は、橋本さんからお願いします。

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1.講師紹介

橋本:お早うございます。今日は平野先生が急用でお見えになれませんので、私が代

役を勤めさせていただきます。先生のご紹

介から簡単にさせていただきます。1933年1月1日、千葉県の佐倉市でお生まれになっておられます。この年はヒトラー政権が誕生した年ですね。日本では前年に満州国が成立、5.15事件、国際連盟脱退の年でもあります。お父様が職業軍人で在ったことからあちこち転勤なさっており、小学校入学は東京の赤羽根尋常小学校、ご卒業は福岡の当仁国民学校です。女学校は仙台の第1高等女学校で、1年のとき敗戦。お父様の公職追放に伴いまして故郷の藤岡に戻られ、藤岡高女に転校、まもなく新制中学校の創設に伴い藤岡高女にも付設中学ができ、そこをご卒業になっておられます。藤岡女子高の後、群馬大学学芸学部で国語教育を専攻、‘56年に万場小学校に赴任、教師生活をスタートさせました。その後、いくつかの小・中学校を経験なさり、県教育センター、高崎市教委の指導主事などを歴任、‘91年に群馬県公立中学で初めての女性校長(高崎市立高松中学)になって話題になられた方でもあります。ご退職後は、群大の非常勤講師、東京女子大研究生、2002年群大大学院の社会情報学研究科で「GHQ占領下の群馬県公立高等学校の『男女共学』の成立過程」という修士論文をお書きになりました。その後は明和短大を始め、いくつかの学校で教鞭をとられる一方で、市民運動など多彩な活動をなさっておられます。宜しくお願いします。

2.女は男の枕もとの前を通るな!

橋本:早速始めたいと思いますが、今日は前半・後半に分けさせていただきまして、前半は先生が「女性学」を研究されるに至った経緯、特に教師としての自己形成の話、後半に「男女共学」のご研究のお話を伺って行きたいと思います。で、今回お配りした資料を確認しますが、A4版の裏表7枚綴りは後半の「共学」関係の資料です。次のA3の年表、これは東京女子大研究生の最後にお書きになった『自分らしく歩んで』―女性教師の戦後史ノート―のなかから引かせていただいたものです。お子さんが、出版関係のお仕事をなさっておられるそうで、そのアドバイスを受けて、構成したとのことです。ご自分のライフヒストリーを6つに分けられ、それぞれ視点1社会・政治の動き 視点2主婦論争 視点3教育と教職員運動 視点4自分史から述べておられます。戦後教育史をコンパクトにまとめておられますので、この本を参考にインタビューさせていただくことにしました。わずか、1時間程度しかお聞きできませんので、詳しくはこのご本をお読みになってください。先生のご好意で本日は千円でお分けできるそうです。それから、もう一つB5の小冊子がありますが、これは前橋高校の生徒会誌『坂東太郎』(‘95年)の特集をコピーしたものです。実は県下公立高校の生徒会・新聞部に是非学習会に参加して、意見を聞きたいというお便りをしました。残念ながら見えていませんが、そのために作成したものです。後でお読みになってください。前置きが長くなりましたが、先生の生立ちから家庭教育や学校での出来事などをお話願えたらと思いますが…。

小野関:私の父は職業軍人でしたから普通のご家庭とは少し違うかもしれませんが、私は「おんな」に生まれたことを後悔はしていませんが、一方で男に生まれればなァという思いは正直言って今だにあります。と言いますのは、今振り替えってみますと、戦前の家庭における「おんな」は家事労働者としてのみの存在でしたね。父は藤岡の在の牛田というところの出身ですが、3人兄弟の末っ子でした。兄二人は教員になっていたものですから、跡継ぎして百姓でもしようと思っていたらしいのですが、兄達から反対され、陸軍経理学校へ入って、職業軍人になり、全国を回っていたのです。埼玉で母とめぐり合い結婚したそうです。そのとき母は18歳、逓信省でモールス信号の仕事をしており、職業婦人として生きようと決意したばかりだったので、結婚したくはなかったそうですが、当時の時流だったのでしょうか、恩師に「将校さんと早く結婚しろ、それがお前の幸せだ」と言われ、結婚したのだそうです。その話を聞いたのは小学5,6年のときだったと思いますが、私はそれが当時の女の生き方なのかと思いながら、母に何か満たされないものがあることを直感していました。でも、父にはあくまでも忠実に生きたおんなに見えました。母の口癖は「女は子どもを5人生まなければならない。あと二人産まなければ」というのでした。兄が3人、姉と私で5人なのにそう云うのです。あぁそうか、母には娘は員数に入っていないということが子供心にも分かりましたね。富国強兵の時代でしかも将校の妻だから、男を5人産むのを義務と考えていたようです。だから、弟が生まれた時、私が枕元を通ったら「女は男の枕元を通るもんじゃない」と酷く叱られました。面白がって通って、叩かれたこともあります。男より先に箸を持ってはいけない、先に風呂に入ってはいけない、なんでも男が先なんです。いまなら笑い話のようなことが厳然とありました。「へんだなぁ?へんだなぁ!」といつも思っていましたね。これが今も続いています。これを「気づき」というのです。これが自分を育てる原点になるものだと信じています。いま、大学でもこの「へんだな?」シリーズをやっているのですが、何を自分で意識できるかということが「教育」、educateするものだと思うんですね。昔はその反対で、ただ言われたとおり、従順に従っているのが「おんなの美徳」だったのです。それでは成長できません。

仙台では8月9日に大爆撃を受けて、母と弟二人と私の4人で逃げ惑い、最後は広瀬川に飛び込むんだぞと言われ、なんで戦争なんか、へんだ!と叫びたい気持ちでした。

8月15日、玉音放送、雑音が激しくよく分からなかったが、母が涙声で「戦争に負けたんだよ。でも、…勝つまで続けるんだ」と云ったのを覚えています。私は終わってよかったと思いましたが、父も「本土決戦を決行し、勝つまで戦う」と云っているのにショックを受けたことを思い出します。

その当時、長兄は陸士を出て中国戦線へ、次兄は陸軍幼年学校から士官学校へ、すぐ上の兄は広島の陸軍幼年学校、原爆でやられたのでは?ところが、幼年学校の生徒は全部疎開していて助かった。軍人が助かって、市民が死んだ。

姉は奈良女子高等師範を出て女学校で数学の教師をしていました。父は陸軍主計官で大佐、その襟章をはずされ、残務処理に兵舎に通っていましたが、その屈辱は私には理解できませんでした。大きな家に住み、下士官にかしずかれ、車が迎えに来る生活から一変したのです。

生活は苦しくなるばかり。故郷に帰れば田畑があるから百姓して飢えをしのぎながら復員を待とうということで、藤岡に戻って来ましたが、不在地主で小作の人たちが土地を耕しており、やがて農地解放で全てを失ってしまいました。住む家さえなく、牛田の医光寺というお寺に間借りです。兄弟たちは続々引き上げてきましたが、父は土方の賃仕事、9人家族は着物や絵画、刀剣・骨董の売り食いの極貧生活でした。戻った姉が新制中学の教師になってくれましたので、その給料だけが一家の支えでした。私は姉の働く姿を見て、「女でも家族を養える」という自信のようなものが湧いてきたのを覚えています。それからが私の青春時代。想像してみてください。

3.恩師大木先生

橋本:生活が激変したわけですが、47年、(婦人参政権が実現し、「教育基本法」が成立した年)藤岡高等女学校「付設中学」3年のとき、女なんだから高校へ行くことはないとご家族から反対されたそうですが、その時、社会科のO先生が助言してくださったというお話ですね。O先生の社会科の授業と合わせてお話願えればと思います。

小野関:O先生というのは、ご存知かもしれませんが、中学3年のとき担任をしてもらった大木初太郎先生のことです。私は先生に母から進学をあきらめなさいと言われたことを話しました。何しろ売り食いの生活で、私の大好きなきれいな洋服を親戚の子が着ていたのですから…。

 私が生徒会役員をしていたからなのでしょうか、あるとき校長先生に呼ばれまして、「どうしてもダメか」、そばで、大木先生が「それなら特別奨学制度があるから受けてみろ」とチャンスを作ってくださったのです。試験が高崎だったので、藤岡から歩いて受けに行きました。で、運良く受かって、藤岡女子高へ入学できたのです。そして、それが大学でも使えるというので、結局、群大へもいけたのです。

社会科の授業でも影響を受けました。「女性の賃金はなぜ安い?」というテーマで発表したとき、みんなは「女は出産などがあって、途中で仕事をやめたりするからしょうがない」と口々に言ったのですが、私は「女だって同じ人間だ。賃金に差があるのはおかしい」と主張した。先生がニッコリ頷きながら聞いていてくれたことをきのうのことのように覚えています。先生自身、苦労なさって教師の道を歩まれので、私に同情してくださったのでしょうか。「やれることはなんでもやってみろ、先生、応援するから」といつも激励してくれました。私は先生のそういう生き方に傾倒しました。

組合活動にも熱心だったようです。それだけに思想的に生徒に与える影響は大きかったですね。後で聞いた話ですが、藤女は(組合活動の)中心校だったようですね。先生との出会いがなかったら横道にそれていたかもしれません。

4.宮本顕治氏に会ってみたら…

橋本:48年、藤岡女子高に入学。キャンデー売り、郵便の仕分け、工場での宛名書き、駅弁売りなどなんでもアルバイトをしながら生徒会活動をしたり、無政府主義者大杉栄のパートナー「伊藤野枝」に関心を持ったそうですが、それはこの本を読んでいただくとして、‘51年(昭和26)に群馬大学学芸学部に入学なさったわけですね。この時代は‘49年に新中国成立、‘50年朝鮮戦争があって、占領政策が大転換した時代ですね。‘51年は日教組が「教え子を再び戦場へ送るな」を運動方針に決定した年ですし、サ平和条約が締結され、日本が独立した年でもありました。ご卒業なさった55年には「うれうべき教科書問題」が保守党から出され、保守対革新、文部省対組合のせめぎ合いの激しい時代に大学生活を送られています。自治会活動で後のパートナーの小野関さんと恋愛、(これについてもお伺いしたいところですが我慢して)卒論に「宮本百合子論」をお選びになり、宮本顕治氏にもお会いになったそうですが、その辺のお話をエピソード的にお願いします。       

小野関:「宮本百合子論」を始めた背景には大木先生の影響や学生運動があったとは思いますが、高校時代に関心を持った伊藤野枝や平塚雷鳥など、当時の女性に対する弾圧や虐殺問題に興味関心を持っており、「女性学」という言葉はありませんでしたが、「自立した女性の生き方」をテーマに卒論を書いてみようと考えたのです。ちょうど自治会の執行部の総務部長を1年先輩の小野関がやっていまして、教育実習も一緒だったりして好ましい人だなと思っていましたので、(笑い)自分自身の生き方を見つめるためにパートナーとの関わりをどのように考えればよいのだろうと思って、宮本百合子の『貧しき人々に群れ』を読んで感激したのです。その中には貧困から立ち上がり、自立した女として生きることに立ち塞がる色々な壁のことが書かれてありました。伸子の生き方ですね。ところが、卒論を書くにあたって、困ったことはプロレタリア文学の専門教官がいなかったことです。でも、勝山先生と有川先生が面倒見てくださいました。で、テーマの「パートナーとの関わり」を考察するために共産党の宮本顕治氏(‘57年から党書記長)に手紙を出したら会って下さるというので、代々木まで出かけました。そのとき百合子はすでに亡くなっていましたが、百合子をどのように見ていたかをお聞きしようと思ったのです。でも、やっぱり…。彼にしてイメージにあるのは自立した百合子ではなく「妻百合子」なんですね。夫婦ですからしょうがないことかもしれないのですが…。尊敬しているとは云ってました。しかし、そのとき、私もそうなるかもしれないと漠然と思ったのですが、対等な関係で生きることの女の厳しさと同時に男の儒教道徳思想の保守性(イヤデスネ)、所詮男が求めているものは「おんな」なんだな、伸子の一筋に求めていた女の自立への願望を夫に訴えて苦悩する姿は実は、百合子の生き方だったんだなということを感じました。伸子の夫は顕治と同じですよ。

5.先生、木陰で休んでいなよ。

橋本:耳の痛い話でした。‘56年、新任教師となって万場小に赴任され、早速研究授業で『アルプスの山の少女』ハイジの物語ですかね、紙芝居をつくり、当時流行った「主体的学習」に取り組んだりしたそうです。56年といえば、この年は教育委員会が選挙から任命制に変わった年です。先生は歴史のエポックに沿って何か新しいことが加わる感じですね。翌年、藤岡市の日野東中学に転勤、組合員になられた。「勤評反対闘争」を経験なさり、また、男性教師の偏見・無理解など感じるところが多々あったと思われますが、これは後ほどお伺いします。先生は1960から69年を自己拡充期と位置づけておられます。この時代は国中が沸き立った安保反対闘争で幕が開き、「所得倍増論」・高度経済成長の時代でした。66年、「家永教科書裁判」訴訟、中教審の高校多様化路線と「期待される人間像」、60年代末、大学紛争と日本が大きく変わった、日本史上画期的な時代と言われていますね。そのような時代に‘58年(昭和33)「学習指導要領改定」で試案から拘束力を持つと文部省が強弁した年ですが、学生時代の恋のお相手「小野関氏と結婚」(当初は旧姓)なさいましたが、共働き・子育てではどんな苦労がありましたか。

小野関:共働き、子育ては大変でしたよ。中学では子どもができると絶対担任は持たせてもらえませんでした。一方で、年配の先生で担任を持たない女性教師に対しては、「旦那が教育委員会で偉いもんだから担任なんかしないで楽している」なんて陰口を叩く男性教師もいました。むかっ腹を立てて喧嘩をしたこともありましたよ。日曜日直は女性教師の仕事でした。男性教師は宿直で、喜んでやるんですよ。仲間と宿直室で楽しむんでしょう。中学は女性教員が少ないからすぐに回ってくる。小さい方はおぶって、上の子にはしっかりズボンに掴まってろといいながらオートバイで学校へ行ったものです。寒い冬の日なんか、早く宿直の先生が来てくれないかなと待ちどうしかったですよ。産休に入りたくても補助教員制度が不備でなり手がいない。代わりの先生が来てくれないから産休が取れないんですよ。大きなお腹をして、女子生徒の体育の指導をしていたら、生徒が見かねて、「先生、木陰で休んでいなよ」と椅子を持ってきてくれたことがありました。産前産後6週間の制度なのに実際に入ったのは1週間前でした。

 それから、それまで一緒に闘ってきた女性教師が突然退職届けを出したことがありました。優秀な先生が辞めていく。どうして?口ごもって、はっきり答えてくれませんでしたが、所謂「肩叩き」ですね。パートナーが管理職を目前にしていると、女性教師にそういうことがありました。男性教師にはないのにね。

橋本:先生のお連れ合いも教員をしていたわけですが、家庭生活で協力はしてくれましたか。

小野関:えぇ、それは良くしてくれましたね。若い先生から「当時はいまみたいな子育て支援がないのにどうして続けられたの?」とよく聞かれますが、運のよいことに子どもの面倒を見てくれる方がご近所にいたのです。私の月給の大半はそれで消えましたけれど。この方は旦那さんをなくしたあと、やはり売り食いの生活の中で、親戚の子ども二人を引き取ってお育てになっている方でした。とてもよい方だと紹介を受けましたので、お願いすることにしました。子どもたちも懐いてくれて「おかあちゃん」と呼んでいましたね。私のことはママでした(これでも)。親の世話は受けなかったのかという人もいますが、親には親の生き方がありますし、パートナーは長男なのに家を出ていますから、お願いできませんよね。二人でやろうと決めて結婚したのですから。日曜日、家にいるときでも「おかあちゃん家へ行く」などとぐずる時もありましたが、今日は休みだからママと一緒に遊ぼうね、と何度抱きしめたことか。そういう苦しみがあって、自分の好きなこと、やるべきことをやる、そういうことができる条件を作っていく、女が仕事をするとはそういうことだと思うのです。

6.ねむいから…ねるね。

橋本:そういうご苦労があって、1972年、女性で初め支部役員(書記次長)になり、産休補助教員問題、育児休暇問題に取り組んだそうですね。先生は70年から79年を「自己発展期」と位置づけておられますが、この時代は日本列島改造論に代表されるように日本は経済大国になりました。また、71年、今日の「教育改革」の元になる「第3の教育改革」答申が中教審から出されています。1973年には、高校家庭科女子のみ必修4単位)となり、性役割分業論=いわゆる新しい衣をまとった良妻賢母思想が登場しています。そのような中でどうして支部役員をお引き受けになられたのかからお話願えますか。

小野関:乳飲み子を抱えながら組合の役員を引きえ受けるのは、常識的には無謀ですよね。学校で普通に勤務して、それから組合の会議だ、動員だ、出張だ、でしょ。とんでもないことですよ。だから、女性教員で組合役員になる人は少なかった。実は、私は組合にこんなことを言ったのです。「もう少し女性教師の問題を組合として取り組んでもらいたい」と。というのは、その頃、共働き女性教師への風当たりが強まり、群馬県でも若年退職勧奨が盛んに行われていました。私は「女である私は絶対辞めない」という信念を持ち、「男の夫だって同じ」という「人権問題」「労働権問題」として捉えていましたからそういうことを主張したのです。すると、「そんなこと言ったって、肝心の女先生で組合役員をしてくれる人なんかいないじゃないか。そんなに切実なら女性教員も役員になって頑張ってもらいたい」とこうなんですよ。確かに主要役員にはならなかったかもしれませんが、女性教員だって真剣に組合活動に取り組んでいましたよ。組合の幹部達が、内心では「女は早く辞めた方がよい」とか、「女先生はお荷物」と考えていたと思いたくはないが、女気を出してしまいまして、勢いから役員を引き受けることになってしまったんです。

「育児休業法」の期間延長問題で自分の体験を述べたことや、人事差別の問題で随分闘いましたよ。ある夜遅く帰宅すると、「ママ、こんやもおそいね。さきにねるけどつまらなかったよ。また、ぼくのはなしをきいてね。ねむいから…ねるね。おやすみなさい。」たどたどしく綴られた文字を読んでいるうちに、字が見えなくなりました。可哀そうでしたが、一方で子ども達は早くから自立志向が旺盛で、自分のことは自分で解決しなければならないことを体験を通じて学んでくれたようでした。

最後に、パートナーの協力が私を支えてくれました。彼だって忙しいのに、私が遅いときは早く帰って、食事を作り、子供に食べさせ、不満を言ったり、「辞めろ!」なんてことは一度も言ったことがありませんでした。だから、離婚はしませんでした。(笑い)

いま、専業主婦の皆さんにこんな問いかけをしたいと思います。

「なぜ、あなたは結婚して、無償・無収入の道を選んだの?」

「女の人生の幸福は結婚ですか?」         

「男は愛のために決して自己を放棄しない。知っていますか」と。

7.女の社会進出で“変わる”

橋本:前半の最後にお伺いしたいのですが、1980年から今日まで〔自己充実期〜解放期〕とされています。1982年、中曽根政権となり、愛国心が強調される一方、家庭崩壊、いじめ、登校拒否、家庭内暴力などが噴出しました。この時代はバブル経済に踊った時代だったですね。1989年、ベルリンの壁撤去・東ドイツ崩壊の大激震が世界を被い、日本でもバブル経済が崩壊しました。91年にはソ連邦が崩壊し、東西冷戦体制が終わり、世界秩序が大きく変わります。そういう中で1983年、乗付小の教頭を皮切りに、それ以降、県教育センター指導主事、市教委指導主事、群馬県の中学で初めて女性校長(高松中学)と、管理職の立場となり、女性の地位向上に大きな足跡を残していますが、その辺のお話をお聞かせください。   

小野関:今でもよく「先生、どうして管理職になんかなろうとしたの?」聞かれますが、それにはいろいろな意味があるのです。私は40歳前半の頃から教頭試験を受けるよう校長先生から言われていました。でも、最初は断っていました。組合活動や教科研で育てられてきましたし、共働きの問題もあったし、「管理職=男性コース」ということから拒否感があったためです。私の経験では、中年の男性で40歳を過ぎると管理職の試験に挑戦し始め、「教師の眼」が子供たちから離れていくのを何度もみてきたからです。勉強しなくなりますね。それに対し、組合の先生方は勉強していましたね。子供の目線もしっかり捉えていた。しかし、私にはもう一つの視点があったのです。それは、中学のときは私より若い男性教員が企画委員会などに入っているのに、私たち女性教員の校務分掌は美化、清掃、保健などばかり。学年主任さえさせてもらえないばかりか、3年になると担任を外されたり。これを私は女性差別と考えていました。1975年の「国際婦人年」にメキシコで開かれた世界女性会議では「男は仕事、女は家事・育児」という伝統的な性別役割分業こそが差別の根源で、「性役割分業意識」を克服して、いずれの領域でも男女が平等に活動すべきであることを確認しています。その「性役割分業」意識克服の第一歩として、女性は妊娠・出産という特性を持つけれど、家事、育児など家庭生活の責任は男女で負うべきで、それを社会が支援すべきだという宣言が出されたのです。

ですから、私は「歳相応の仕事を男性と同じにやるのだ」そのために「女性管理職の道を切り開かねば」と考えたのです。で、教頭試験を受けましたが2年続けて不合格でした。「29分スト」を始め「差別人事反対」など様々な闘争参加が関係したのでしょうか。そういう時、校長が黙って転勤してくれというのです。しかも高崎の小学校へ、です。私は即座に拒否し、家へ帰ってから夫に不満をぶちまけました。しばらくじっと聞いていた夫の言ったことに私は耳を疑いました。「それなら辞めればいい」。いままで、どんな苦しいときにも一度も言ったことのない言葉をついに夫から聞いてしまったのです。「中学でも小学校でも教員には変わりはない。自分の思い通りにならなくていやなら辞めるしかない。」と。冷静になるのに時間はかかりましたが、私は胸を突かれましたね。「自分らしく」生きるということは、「自分勝手に」生きることではない、組合活動家として、教育実践家として、「よい教師」でありたいと願っているなら、どこの学校だって同じことだと云いたかったのでしょう。私は翌日、転勤を了承しました。

8.学校はジェンダーがいっぱい!

私はその小学校で、3年を担任し、初めて学年主任となりました。スタッフは5名。一生懸命やりました。そこで私は「どこにいても、道を開くために努力しよう。そうするとみんなが力と勇気を与えてくれる。それが人間としての自立なのだ」と感じました。翌年、教務主任になり、初仕事が職員便所の清掃問題でした。慣習で男性教職員の便所は学校職員が、女性便所は女性教員と女性職員がしていました。私には例の「何かへんだ」が頭をもたげました。「そんなことは気にしない」「男性教師にさせるのは可哀そう」という女性教師もいました。「俺達には関係ない」「児童生徒と関わりを持つのが教師の仕事」と男性教員。様々な議論、紆余曲折はありましたが、最終的には教育活動として子どもたちと一緒にやろうということになり、私が担当しました。子供たちは喜んでやってくれたのですが、私には「職員便所」清掃の負担を子どもに押し付ける意図は全くなく、先生方に「子どもと共に実践する教師」に育ってもらいたかっただけです。この実践によって職場の雰囲気が一気に変わりましたね。女子職員や女性教員だけに便所掃除をさせる風潮は自然になくなり、便所に花を飾る男性職員が出てきました。このように学校教育の中には根強くジェンダー問題が潜んでいたのです。その後、海外研修に行ったり、教育センターの特別研修員などを経験しました。で、50歳のとき教頭試験に合格、‘83年乗附小学校の教頭になりました。「共働き教師」の女性管理職は県内で初めてだったそうです。‘79年に女性差別撤廃条約が国連で採択(日本は‘85年に批准)されたのが女性登用の流れをつくったのかもしれませんね。

その後、高崎市教委の指導主事をやったりしましてね。ちょっと面白いのですが、夫と同時に管理職を務めることは前例がないというのでダメなんですね。私が教頭のときは夫は行政、夫が校長で現場に入るときには私が行政にと云う具合なのです。ですから、私が校長になったのは夫が退職した後なのです。中野教育長(人格者として人望が高かった)が私を呼んで「中学の校長になってもらいたいんだがいいかね」と。

校長として赴任した中学は古い歴史を持ち、進学にも力を入れている学校でした。「進学」を生かしながら『子どもの権利条約』の視点で、「子どもの自己実現」を主眼において、「自ら気づき、自ら考え、自ら判断し、自ら決定し、自ら表現し、自ら解決する力」を育てる「自問教育」を進めました。

後で聞いたんですがPTAの役員さんが「えっ、校長が女、いやだな」といったそうです。でも、校長になってからはそういう声は聞かれなくなり、逆に面白い校長だと言われましたよ。どうしてかと言うと「あの校長はダメだと絶対言わない校長だから」だそうです。あるとき生徒会長が長髪にしたいと言ってきました。当時は校則で丸坊主。私はPTA、生徒会、職員会議で検討し、長髪を認める一方で、それを使って義務と責任を教えましたね。

そういう中で気になったのはやはりジェンダーでした。生徒指導の中では「男のくせに」「女だから」という言葉が飛び交い、進路指導では「男なんだからがんばれ」「男のくせに恥ずかしい」「女なんだからそんなに無理しなくたって」「短大につながっているから」という「特性論」フレーズが無神経に撒き散らされていました。特に、こういう言葉を使うのは学年主任や指導主任になれるような女性教師に多いように思われました。優秀な彼女達はいままで何度もこのような言葉でいやな思いをしてきただろうに、と思うと暗澹たる気持ちにさせられたこともありました。学校にはジェンダーがいっぱいあります。ちょっと挙げただけでも、理科の実験は男子がうまいから主役になり、女子は記録役、委員長は男子、書記は女子、会議も発表も順番も男子が「長」で「先」、「女の子だから」「女の子なら」などなど。これを克服する課題がいまの教師に課せられているのだと思います。

もうひとつ。教師として優秀な女性教師に管理職試験を薦めると、

「私は子どもが大好きだから、生徒のそばにいたいのです。管理職など嫌です。」

「子どもが大好きなのは私だって同じよ」

「私は女ですから子どものそばにいたいんです。子どもも女親がそばにいることが一番幸せだと思います。だから、母親でもある女性教師は生徒指導のプロのはずです」

「女、女性、母親」を振りかざしながら「性役割」を強調する彼女に私は心の中で「そんなことはどうでもいいのに」と思いながらあきらめました。もしかしたら、パートナーの管理職問題が絡んでいたので、断る口実に「性役割分業論」を使ったのかもしれませんね。そうすると二重にジェンダーに呪縛されていることになりますよね。

橋本:もっともっとお伺いしたいことがあるのですが、予定時間を過ぎてしまいましたので、質問の中で答えていただくということで、前半はこれでおしまいにしたいと思います。質問、ご意見などを伺いたいと思いますが。

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質問:先生に初めてお会いしたのは女性政策室の女性懇話会の席上だったと思うんですが、行政の方としてはユニークな発想をお持ちの方だなと感じました。私も教師を経験していますが、校長先生になられるということは学校つくりの中心ですからよい方向にも変えられるんですよね。しかし、私が引っかかるのは、やはり立場上、ある意味、教育委員会の末端にあるわけですから、云うことも聞かなければならいわけで、その矛盾みたいなものがあるんじゃないかと思うのですが、このような場ですので、その悩みなどをお伺いできればと思いますが。

小野関:色々ありましたね。例の長髪問題ね。他の中学では認めないのにどうして許可したんだという声はありましたよ。でも、私は言いましたよ。生徒が希望し、保護者もさせて欲しいと云っている。時代もそういう時代になってきている。だから許可したんだと。一歩前に出たんですね。実際その後、長髪を認める学校がどんどん増えたでしょ。男の教師ではダメなんですよ。校長会が泊まりであるでしょ。私の部屋はどういうところか分かりますか。女は私一人ですよ。バスガイドさんと一緒の部屋でしたよ。男の校長たちはなんとも思わない。自分だったら大騒ぎするくせにね。でも、話せば分かってくれる校長さんも3割くらいはいますよ。いま、改革に熱心に取り組んでいらっしゃる女性校長が増えましたね。楽しみです。

質問:いまの質問に関連してなんですが、文部省の行政指導に対してはどう考えていましたか、例えば「日の丸・君が代」問題なんかはどうなんですか。私はそういうのがいやで或いは意味がないから管理職にならない教師の方もいると思うんですが…。会議で先生方が反対しても、文部省の指導がある、そういうときにはどうなさったのですか。

小野関:私の個人的な考え方ですが、生活がかかっていますよね。少しでも意見を言いながら変えていこう、世の中すぐに改革できるわけではないですから。私のときも、いまほど厳しくはなかったですが、ありました。当時は学校の自由裁量でやればよいというのが大概の校長の立場でしたね。現在でも私はそういう考え方でいます。何も上から歌えと命令するものではないだろうと思っています。でもいまは、へんになりつつありますね。立たない先生は処分するなんておかしいと思いますよ。「へんだな」シリーズを家庭でも学校でもやって欲しいですね。いま、教育の憲法が揺れ始めているのは事実ですが、戦後教育の大きな節目を迎えていますね。教師はいつも「変だな?」と気づく心を育てることと、「失敗を怖れてはいけない」ということだと思いますね。

職員会議などで職員と意見が違うこともありましたが、そういう時は、(私が仕えた校長先生から学んだことですが)話をじっくり聞いて、少しずつ変えていこうという姿勢で臨めば理解してもらえる、ということでやってきたつもりです。私自身について言えば、先生方の期待に応えられるように少しでも自分自身の人間力を高める努力をしたと思います。頑張りましょう。

 

<休 憩>

 

9.戦前の男女共学論

橋本:これから後半に移ります。現在別学率日本一の群馬の共学問題についてお伺いしたいと思います。先生の修士論文に戦前の「男女共学論」が出てまいりますが、簡単にご紹介ください。

小野関:レジュメの1頁の〔資料1〕を見てください。1886(明治19)年に東京府学務課長の庵地(あんち)保さんが第一高等中学構内帝国大学講義室の常集会で「女子の教科の裁縫科と男子の教科の体操をも共学にしようというのではなく、読書や算術、地理等の学科を男女とも同一の場所で一緒に教授する場合の利害得失についてどう考えるか」という問題提起をしたところ、「3年制から4年制の尋常小学校では賛成だがその後に続く2年制から4年制の高等小学校では反対というものが多かったようである」と書いておられます。そして、驚くことに、このとき参会者から出された賛否の理由が現在と類似しているものがあるのです。賛成・反対論のところを見てください。

〔賛成論〕

@男子と女子は別々の集団より智育、徳育両面とも相互とも学ぶことが多い。

A社会・家庭でも自分の見識を持った人間的に自立した女性を育てる(男性とは言っていない)のに共学は有効

B共学制度は経済的である。

C社会は男女で構成されているのだから、学校も男女共学が当然である。

D10歳、11歳位は生理上の違いは大きくないので、共学は可能。

E共学は男女に交際の場を与え、相互理解と協調に貢献する。

〔反対論〕

@男女は身体・性質・徳行の目的、将来の業務が異なるのだから共学は無理である。(今でもこういうことを言う人がいるでしょう)

A男尊女卑の日本では、男女に期待する教育の程度や内容が異なるので、別学の方が女子の就学率が上がる。

B家父長制下の家族に順応するように教育するためには男女同一の教育は不都合

C女子は生理上知識の不完全なものであるから、共学では種々の危険なる場合がある。

D日本の現時には共学を上手に管理する良い教員がいないから。

E共学は女性の発達にかえって害をもたらす。

(註)アンダーライン、( )は小野関先生

次に〔資料2〕を見てください。私は、退職後高崎市の女性政策室政策推進員(註)になり、東京女子大の矢澤澄子先生(「都市計画論」をジェンダー理論で考察)をお呼びしたのが縁で、東京女子大の研究生になり、その時に学習したものです。東京女子大には林道義(「新しい教育基本法を求める会」)さんのようなジェンダーより男らしさ・女らしさを強調するとんでもない方もいますが。(笑い)

(註)国連は1975年を国際婦人年とすることを宣言、同年の第一回世界女性会議で女性の状況改善を目指して10年間の行動指針が立てられ、79年には女子差別撤廃条約がつくられた。日本は85年「男女雇用機会均等法」などの条件整備後、批准。95年の北京で開かれた第4回世界婦人会議には世界各地から3万人が参加、今世紀最大の女性集会になった。この風を受け、高崎市も「女性政策」に取り組むことになった。

(この資料は)1931年に出版された小泉郁子(註)さんの『男女共学論』(新教育協会)です。

註:アメリカでの自らの共学体験と資料に基づいたもので、それまで公表された男女共学論で最も「体系的なもの」と言われ、戦後の日本で実施された共学に外形的に類似していると言われている。しかし、戦前に文部省の督学官の職を失う原因となり、戦後、GHQが男女共学の採否を検討したときに使用したと言われている。

小泉は共学の目的を@個性の認識とその発展 A社会性の認識とその発展 B正しき男女観の要請と男女協調の訓練であるとし、女性解放の視点から「性別の相違は歴史的なもの」であり、「男女の相違は(従来の考えより)遥かに量において小、質において異なっている」と書いています。これは現在から見ても卓越した見解だということがいえると思います。

10.『女子刷新要項』のスタンス

橋本:戦前にも優れた先達がいたことを確認し、戦後へ話を進めます。占領軍の基本的な占領政策は日本の非軍事化と民主化にありました。マッカーサーは‘45年10月に@参政権付与による女性の解放、A労働組合結成の促進、B学校教育の自由化、C圧制諸制度の廃止、D日本経済の民主化の五大指令をだし、それに基づき、GHQから軍国主義及び極端な国家主義思想普及の禁止、修身・国史・地理の停止を含む4つの指令が出されています。翌、46年3月には有名な『米国使節団報告』(教育の自由主義的民主改革の基本路線を提示、被占領下の教育改革はこの枠組みに沿って展開された)が出されています。   

これに対し、日本側では当時の最高叡智集団を結集した「教育刷新委員会」が作られ、「教育基本法」「学校教育法」などが作られています。このような中で、戦後当初に女子教育改革の努力があり、『女子教育刷新要項』というものが出されていますが、どういうものなのでしょう。

小野関:前半で私の体験を通じ、戦前は良妻賢母主義で女性の地位は低く、その差別扱いは信じられないくらいのものであったとお話しました。旧制中学校と高等女学校では学力に少なからぬ差が生じるようなカリキュラムが組まれていましたし、高等教育では大学は男子が占有、女子の高等教育は女子高等師範の他に日本女子大学校、東京女子大学(名前は大学だが専門学校)、女子英語塾(津田)、女子医専位のもので、わずか数大学で女子の聴講がかろうじて許されただけでした。

こうした実情に対し、‘45年12月、マッカーサーの指令で発表されたのが『女子教育刷新要項』でした。

〔資料4〕の3.措置(抜粋)の項を見てください。「女子高等学校ノ創設ハ追ッテ考慮スルモノトナシ、其ノ教科ヲ高等学校高等科ト同等ノモノ(略)」

「高等女学校ノ教科ヲ中学校ト同程度(略)、教科書は中学校と同一ノモノタラシムルヲ建前」「大学高等専門学校ノ講義ヲ女子ニ対シ開放シ、<中略>聴講生制度ヲ採用スルコト」とあり、「同等」「同程度」で、決して『同一』にとは言わないし、「同一のもの」はタテマエとしているのです。ここに当時の政府の女子教育に対する基本的なスタンスを見てとることが出来ます。一定の前進は評価できますが、しかし、本質的な部分は平等ではないのです。

11.高校3原則実施のはずが…

橋本:こういう中で、‘48年、GHQから「高校3原則」(小学区制・総合制・男女共学)がだされ、新制高校が登場するわけです。この辺の事情をお話ください。

小野関:〔資料5〕を見てください。GHQの指令を受けて、1947(昭22)年、『新制高等学校実施の手引き』が文部省の通達として出されています。これを読むと文部省の本心が良くわかります。

@将来多くの高校が出来て希望者がもれなく進学できることが望ましい。

A(ここに注意してください)大都市では普通科、職業科は別々でも良いが、学校の少ない地方では進学者の希望を満たすために総合的な学校が望ましい。

最初から全てを総合制にするのではないのです。地方ではいくつもの高校を作るのは財政的に大変だから、一つの大きな総合高校にみんなを収容してしまえ、という感じでしょうか。

B(しかも)高校は必ずしも男女共学でなくても良いが、教育を受ける機会は男女同じように与えること。旧高女の狭い校庭やトイレ問題など、戦後の貧困な財政の中で困難だったのは理解できますが、これでは「原則」を守らなくても良いと政府が保障しているようなものでしょ。「機会」を与えればよい、なんてタテマエ主義が見え隠れしていますよね。

それでも、都道府県でばらつきはありますが、普通科と実業科の統合再編とか小学区制の採用、男女共学化が進行し、新制高校の約4割が総合高校に、何らかの形で小学区制を採用したのが約50%、49年9月までに63%が共学校になっています。「高校3原則」に基づいて新制高校が登場してきたわけですが、相当割り引かれていたというのが実情です。

12.「西高東低」なぜ?

橋本:お話のような状態でしたが、これは一つには戦前の中央集権的教育支配を排し、教育の民主化のために地方に任せるという事情もあったと思います。従って、GHQ管轄のCIE(民間情報教育局)とは別に陸軍の統括する地方軍政官の役割が大きかったとも言われ、男女共学は「西高東低」でした。その辺の事情をお伺いしたいと思います。

小野関:レジュメ7頁の〔資料9〕を見てください。「教育基本法」の制定作業が続く中、‘46年段階で早くも共学を実施した青年学校や義務教育の新制中学校など共学制の採用・実施は徐々に広まっていきました。しかし、前にも言いましたように新制高校の男女共学の採用・不採用は「各校の自由裁量」となったため、「担当軍政部が寛大に対応した東日本では男女共学が漸進的に行われた」のに対し、「西日本では軍政部の強硬な指示によって半強制的に共学を完全実施した」(『男女共学制の史的研究』橋本紀子著・大月書店)ところも多かったのです。その結果、文部省の『手引き』に基づき、地方の実情に応じるということで「伝統校が別学を固持」したり、学校の門戸を両性に開放しただけで、自然の成り行きに任せたりした東日本の県の多くは極端な男女比の不均衡が生じてしまい、本来の男女共学とは違った高校になってしまったのです。群馬県で言いますと、周辺部の男子高校には少数の女子が、ほんの僅かな男子を含む女子系の高校が誕生し、中心部の所謂「伝統校」は従来のままで別学として存続することになり、今日まで続いています。

13.幻に終わった伊勢崎高校の共学

橋本:地方軍政部だけの力ではなく、そこには文部省や地方当局、また高校側の様々な思惑があったことが分かりました。そこで其の経緯をもう少し詳しく見るために伊勢崎高校(註)・女子高校の事例でご説明いただきたいのですが…。

(註)元伊勢崎商業学校だったが、普通科もあったため、「商業」ではおかしいということから「伊勢崎高校」と呼ばれていた。のち、普通科がなくなり、「伊勢崎商業高校」となった。

小野関:5頁の〔資料8〕を見てください。

49(昭和24)12月10日付の『上毛新聞』に次のような記事が出ました。

「戦災で焼けた伊勢崎高校(男女校とも)の復興が地元から強く要望され、近く平田教育長を中心に郡内選出県会議員、市町村長、PTA会長、両校長らが、伊勢崎市で会合して校舎問題の早期解決を協議する。現在男子校は無残な校舎で二部授業の不便をしのんでおり、女子高校でも旧中島工場の間借り住まいでかろうじて授業を続けている実情である。市では新校舎を造る場合、経費節減もあって一校主義で臨み、県下にさきがけて男女共学を実施したい意向であり、県側もこれを支持しているが、市民の一部と女子高同窓会から時期尚早の声が上がり、猛烈な反対にあっている。しかし、大勢は共学論に傾いているので、学校もその線で進むものとみられている。7日、女子高校で合同の同窓会を開き、あらゆる検討をしたが結論は出なかった。男子側は賛成意見が多かったが、女子側は依然反対が強く、女子校同窓会は13日、更にこの問題を再検討することになった」。

「経費節減もあって…共学を実施」とありますが、地元としては新制中学建設に莫大な予算を組まなければならず、軍政部でも

新制中学校の校舎に旧制中学の校舎をあてるため、同一地域の中学、高女、実業学校の統廃合の意向を示していました。だから、「男女共学」のための合併とは言いがたいものでした。また、「男子側は賛成、女子側は反対」とありますが、社会の第一線で活躍する男たちに対し、出身高校にこだわる女子の姿が目に付きます。聞きもしないのに「(私は)○女を出て、ウチの主人は**社の役員で…」などとよく言う人がいますが、自分自身の中身に語ることはないのかと、女である私でさえそう思いますよ。

12月15日付『上毛新聞』では女子高PTA・同窓会の主な意見として、

@県教委の共学案は天下り的である。

A同校の伝統を尊重したい。

B男女学力に差がある。風紀上も面白くない。

C共学は理想としては賛成だが、伊勢崎地区だけ共学実施は時期尚早、と紹介しています。女はすごいですね。反対し出したら梃でも動かない。色々な反対意見をひねり出してくる。「伝統を尊重」?それしかないのか、長い人生を歩んできて付け足すものはないのか、女はノスタルジアに耽っていて、個体として生きていない。

更に24日付では

「伊勢崎高校の復興問題をめぐって、男女共学の賛否を世論に問う会合が22日市役所で開かれ、(参会者の名)<中略>女子校同窓会と婦人会が時期尚早の理由で突っ張り、反対署名運動までやっている事情を反映して、場合によっては市民大会までやりかねない気勢を示し、従来より一歩も前進せず、…」とあります。そのときの議論での賛否の意見は次の通りです。

村長:「共学反対論は根拠が希薄。2校を新設する町村財政に負担重い」

教育長:「県財政、国庫補助等から地元の相当額の負担覚悟をする必要がある。総合高校ならよい

県教育長:「共学の時期で中・大学では実施、高校だけ別学弊害の理由なし

湯本委員:「外国の体験から共学が自然、相互理解すれば犯罪も減少する。男に未知な女は最初の男(結婚)を全てだと思い込む。反対理由の時期尚早、男子の学力低下、風紀問題は学校教育の無理解から来る結果である」。

女子同窓会:「女子の特異性を殺す。親として風紀が心配。理想論で結構だが時期尚早。同じ戦災地の前橋になぜ共学が実現しないのか。反対のための反対ではない」

婦人会長:「当局の熱意が不足。学校設備が他市より劣悪なのに、なぜ県立2校の既得権を1校に減らすのか。共学問題を抜きにして、2校の存続を希望する」

時代を反映した議論だと思うが、心情的には余り今と変わらない議論かもしれません。でも、民主化の時代背景からか、上からのトップダウンではなく、地元での議論の積み重ねはうらやましい気もします。

結果、翌年1月22日付『上毛新聞』では、

「伊勢崎男女高校復興促進委員会は、21日朝10時から市役所議場で、関係市町村長、各層代表等で開き、男女共学の総合制高校問題は、時期尚早の世論に押され立ち消えになり、単独同時復興の2校主義で進むことが決まった」と書いています。

2005年には、伊勢崎地区では普通高校の伊勢崎東高校と境高校が合併(事実上の廃校)、統合、伊勢崎女子高は「単位制高校」として、共に「男女共学校」に再編されることになっているのは歴史の皮肉でしょうか。行く末を見守りたいと思います。

14.前橋高校の「伝統(エリート)固持(いしき)

橋本:教育の民主化のための男女共学問題が、地元財政の問題や政治家の動向、地域住民や同窓会等の新教育に対する期待と伝統固持のせめぎ合い、それぞれ関係者たちの利害得失等が複雑に絡み合っての別学だったわけですね。ところで、先ほど「同じ戦災を受けた前橋では…」というのがありましたが、前橋高校や前橋女子高校ではどうだったのでしょう。

小野関:前橋中学・前橋高女に入る前に少し整理しておきます。群馬県の教育政策は文書・通牒などから見る限りでは「男女共学の徹底」を明記はしています。しかし、詳細に見てみますと、「…その地域の事情に応じて…」、「…画一的強制はしない…」、「男女別学が地域の要望であれば差し支えない」(『群馬県教育史・戦後編』)とか、やる気がないのではと思わされる説明が随所に見られます。これは教育の民主化のためには地域の意見を尊重する、という「タテマエ」がありましたから、一見もっともにも思えるのですが、現実には当時の国民には民主主義より旧体制の意識が強かったわけですから、伊勢崎の婦人会が指摘しているように(県は)「不熱心」に見えるし、「共学にしなくてもいいんだ」というように思えますよね。実際、群馬県は小学区制については埼玉県と2県だけプランさえもありませんでした。これについて『群馬県教育史・戦後編』は次の2点を指摘しています。

@管轄の地方軍政部の教育担当官が男女共学の方針を徹底させなかったため。

A戦前の男女別学制度の下、<男女7歳にして席を同じゅうすべからず>で教育を受けた者にとっては、男女の教育程度の差の大きさや異性を「性」(生物学的)の対象としてしか受け入れられないジェンダーが潜んでいた

このような固定化された意識が猛烈な「男女共学反対」になって表れたこと、もう一つは『反対論』が感情論であるだけに「伝統校」という言葉のもつ意味は、いろいろな意味で重層的な内容を持っており、使う人の階層的な意味をも包括していたかもしれません。これを前置きに、伝統校・進学エリートを目指して別学を存続させた前橋高校を見てみましょう

10頁の〔資料14〕を見て下さい。『群馬県政史・戦後編』『現代群馬県政史』等によりますと、群馬県を担当した軍政部教育担当官のアイスマンやスタッフは軍人といっても民間人出身で、教育の専門家ではなかったが、優秀な文官だったようです。

『前橋高校百三年史』ではこのアイスマンを原田先生に次のように語らせています。

「この人は話せば分かる人で決して無理をしませんでした。他の県などでは、教師達の言うことはいちいち制約されましたが、アイスマンは理想化肌の人で『教育には信念を持って自分の信ずるところを実行すればよいのだろう』という我々の考えに全面的に賛成で、細かい点については全然干渉しなかった。男女共学の問題もありましたが、本校ではいつも時期尚早ということで見送られてきました」

更に、『上毛新聞』は特集「男女共学〜ぐんま戦後50年〜」1995年)の中で、「GHQ理念と別の道」というタイトルをつけ、<旧制前橋中の父母9割が別学支持>という見出しで当時の様子を次のように描いています。

「昭和23年4月に発足した本県の新制高等学校は55校。いずれも旧制中学、高等女学校、職業学校などから昇格の形をとった。この中で特に旧制中学が男子校のまま残っていた背景には、行政当局の強い意志が働いたというのが通説だ<中略>本県の男子校の本丸とされた前橋中に対しても22年、共学化の指示が下された。これに対し、「中村(武雄)校長は苦境に立たされた」と藤生はいう。藤生によると、前橋中では中村校長が『とても一人の意見は通らない』と、父母にアンケートを実施、「9割が別学賛成」との支持を取り付け、軍政部と交渉し別学維持を勝ち取ったという」

時間の関係で前橋高等女学校は割愛せざるを得ませんが、最後に当時の田村遂総務課長(後、県教育長)は次のように語っています。

「六・三・三制発足の時には制度的に色々な指示などがありました。これは新しい制度への切り替えですからね。ことに関西方面は相当強かったようです。ここでもかなりあったんですよ。つまり、「男女共学」とか「高等学校の総合制」、例えば商業と工業を一緒にしろとか、前橋女学校と前橋中学校を一緒にしろとかね。そして、前橋を分けてね。ここから東は前中の方へ男女とも、西は前女へというふうな指示があったんですよ。それに対して、私は頑張ったんですよ。だいたい父兄なんかも賛成しない(『群馬県教育史・戦後編』)

このように見ていきますと、今日、群馬に別学が多いのは、戦後の改革期に軍政部の緩やかな指示(含む、民主化の名の下に地域尊重)と県の妥協的な方針(ネグレクトを含む)と地域や父母の「9割の支持(現状維持を望む)」が相乗効果となって別学が維持されたからではないかと思います。いやむしろ、地元の教育関係者にとっては、占領下にあって「3原則」を跳ね返すのは『抵抗』という意識に近いものがあったようにも思えますね。

(註)引用のアンダーラインは小野関先生

橋本:現在の男女共同参画社会への流れの中で、どうしたら全ての高校が「共学」となり、男女平等が実現するのかについても伺いたいところですが、時間もなくなってきましたので、質問の中でお聞きできればと思います。

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15.京都の場合は…

橋本:先ほど高校3原則の話がありましたが、その原則を忠実に実行したのが京都でした。今日、その京都で小学校から大学まで過ごされた堀先生がお見えになっておりますので、実際にどうであったかをお話願えればと思います。

堀さん:先ほど「西高東低」という気圧配置の話があり、冬型の寒い話かなと思いましたが、群馬では西日本を評価しての話でした。(笑い)私は1957年、堀川高校に入りましたが、これから話すことは、昔はこうだったという私の体験談でして、現在の京都とは全く違うものです。実は、私は「高校3原則」については、群馬に来てから知りました。京都ではそれが当たり前のことだと思っていました。だから、学校は家から一番近いところへ行くものだと思っていました。堀川高校は戦前には「堀川高等女学校」でしたので、木の床で、階段は女性が袴で昇れるように一段一段が低いもので、トイレも女子は大理石の立派なものでしたが、男子トイレはトタンで蔽っただけのみすぼらしいものでした。校則については下駄履き・ノースリーブ禁止だけ覚えています。余りうるさくなかった。共学は当たり前だと思っていたので余り意識していませんでしたが、勉強の出来る男の子、居眠りばかりしている男、男にはいいのも、悪いのもいる、程度でしたしょうか。(笑い)小学区制は、私は家から3分、チャイムと同時に駆け出せば間に合うというもので、遠い人でも歩いて30分以内でした。95%は歩きでしたね。だから、毎日家と学校の往復でしたが、すぐ着いてしまうので、実につまらないものでした。(笑い)群馬へ来て教育運動に携わるようになって、伊勢崎では30数校の中学から一つの高校へ通学しているのを知って、群馬は小学区制にすべきだと思いました。小・中・高とみんな同級生でうまくいかないのでは、という考えもあるかもしれませんが、高校進学率が50%程度でしたから、そんなことはありませんでした。実際には中学だけで就職もありましたし、ピンからキリまでの私立高校へ行く人もいまして、公立高校は少なかったように記憶しています。総合制については堀川の場合は普通科9クラス、商業化3クラス、それに離れたところに音楽科がありました。後に商業科は西京商業高校に統合され、音楽科は市立芸術大学附属高校として分離されたようです。授業で商業科と一緒に受けたのは国語一教科だったと思います。その代わり、3年生と一緒の授業を受けたことがあります。単位制だから、大学のように授業ごとに教室を移動する、まるで民族大移動みたいに休み時間に移動するのです。(ほうという感嘆の声)移動が大変でしたから、授業は2時間続きが普通で、一日3科目でしたね。一緒になるのは帰りの会だけで、クラスのメンバー意識はありませんでしたし、友達はなかなか出来ませんでした。だから、私だけかもしれませんが、堀高出に何のプライドも、愛校心もありませんでしたし、必要のないことだと思います。

小学区制でも同一レベルになるとは限りません。大学関係者の多い地域にある洛北高校(旧制京都一中)と友禅染め関係の地域の堀川高校、(前身が)旧制中学と高等女学校では不公平があったかもしれません。

感想:私は小学校時代、聖書に興味を持ったのでキリスト教系の女子中学に入りました。ところが聖書を読むうちに、女子だけ、に矛盾を感じて、2年の終わりに前高の校長先生に「入れてもらえるか」と電話したのです。いまなら笑い話ですが、当時の私としては真剣でした。(笑い)校長先生は難しい話をしてくれ、私には良く分かりませんでしたが、「考えていない」ということでした。友達は一緒に前女に行こうよと誘ってくれましたが、女子高には行きたくありませんでした。当時、生徒会の役員をしていまして、校長先生や担任の先生がここで頑張れと言って励ましてくださいましたので残ることにしました。今日お話を聞いて、秘密のベールが剥がされたような気がして、すっきりしました。

質問:最近、中央中等学校が出来ましたが、競争主義で格差が拡大し、人間の基本的な平等が遠のくような感じがしています。自分の卒業した学校の名前も言えないようになるかもしれない。そういう逆風が吹いているように思えますが、先生のこれからの見通しはいかがでしょう。

小野関:難しい問題ですね。以前、5カ年計画がだされ、2006年までに共学へ移行というのでしたが、中央部に対しては基本方針が出ていません。少子化との関連もありますが、妙な風が流れ始めています。

16.「今日中に返事を!」(前女)

内藤さん:戦後、共学問題が「西高東低」であったということに関連して、私は『前女六〇年史』にアイスマンは「氷男」とか、「地元にあい(、、)済まん(、、、)」とか、駄洒落を書きましたが、アイスマンの人間性だけでは説明できないものを感じます。西日本だって(共学に関しては)不安がいっぱいあったでしょう。『群馬県教育史・戦後編』を調べてみると「地元の意見に従う」とありました。前女では1947(昭25)2月、突然、校長不在のときでしたが、教務主任(当時は教頭が法制化されていなかった)が昼休みに臨時職員会議を開いた。県からの電話で「新制中学の卒業生が高校に入ってくる来年度から実験的に前女で男子生徒を受け入れられないか、今日中に返事を」というものだった。理念上は賛成、しかし、2月のいま、4月から受け入れろは急すぎて無茶、返上しかないという結論でした。これを考えて見ますと、「今日中に」というのは行政では無理を承知、「現場の意見を聞いたが無理という回答」という手続きを踏むだけ、格好だけつけたというのが真相でしょう。その後、前女に前高・前市女との統合定時制を併置する問題が起こったが、「花園」に男子を入れるのはもってのほか、というので跳ね返した経緯もありました。(これが現在の清陵高校の前身、前橋二高として前高に設置された)男女共学反対の急先鋒は前高でしたね。学力が違うというのが理由だった。それは当然でしょう。前中は5年制、前高女は4年制で、家事・裁縫が31単位もあったんですから。

17.共学を実現するためには…

意見:群馬が別学になったのは、アイスマンが厳しく指導しなかったからというのがありますが、もう一つ考えなければならない問題があると思います。「共学を実現する会」で福島県の共学実現に携わった渡辺和子弁護士の講演をお聞きしたことがあるのですが、「女子教育がどのように行われてきたかを見ると必然性が分かる」とおっしゃったことが印象に残りました。つまり、戦前の女子教育がどのように行われ、それとGHQの方針がどのように関連して別学が維持されたのかの研究が必要だと思います。で、戦前の女学校でどういう教育が行われてきたのかを調べようとしたのですが、そういう研究書はなかなか見当たりません。また、男女共学を実現するためには、県民性とか行政のあり方、政治家の動向などがその背景にあると思うので、その辺を変えていくことを視野に入れた運動がぜひとも必要であると思います。

意見:私は鹿児島出身ですが、ご存知のように男尊女卑の強いお国柄です。でも、男女共学になりました。地域性や県民性はどうなのか、検証する必要を感じます。海があるせいか、「新しもの好き」というのが群馬と少し違うところかもしれませんが…。

意見:もう一つ。共学になったから男女平等になるとは限らない。どのような平等教育が行われるかが問題だと思います。

小野関:その通りですね。共学がその一歩になってくれれば良いですね。

司会:議論が盛り上がったところで今日も時間が来てしまいました。しかし、この学習会は長丁場ですので、またこの論議が出てくると思います。次回は平野先生の講義となりますが、またご参加ください。本日は長時間有難うございました。

(文責:橋本)