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永遠の命求めて 第二章

金精峠 金精神社の言われ

平成22年9月11日 作成 

青木良明

【金精神社で老人と会う】
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 昭和36年のことだ。当時私は自衛隊員で群馬県北群馬郡榛東村相馬が原12戦
車大隊3中隊だった。改編当時のことである。訓練にて片品村金精峠に現地
偵察に行った。そのときに目的地である片品スキー場や金精峠のいわれにつ
いても調査した。

 片品スキー場は片品村から金精峠に入るところにある。スキー場の左の道が
金精峠へ向かう道であり、その道を500メートルほど行くとすぐにドライブ
インがあった。

 ドライブインで休憩したが、そのドライブイン建物の西側に神社があり、そ
の中には男性のシンボルですごいやつが小屋のような神社に祭られてあった。
小屋の中に石で出来たものと、松の幹で作られたもの二つの男性の性根が飾
られて祭ってあった。神社である小屋の中に、石で作られた男性に続いて、
松の幹で作った女の嗚きどころがあるので珍しいと思って見ていた。このと
き下の部落に住んでいるという老人がいて金精神社がなぜ出来たかの由来と
金精峠のいわれを話してくれた。
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【老人は下の部落から来たという】
 老人の話では下の部落に住んでいるという。話好きな老人で80歳ぐらいの人
だった。この老人が金精峠のいわれを話はじめたので聞いてみた。

 下の部落だという老人が、ニコニコしながら話し始めた。昔下の部落(今の
片品村) にはやり病、今で言う伝染病で全部の家で病気にかかり治すことも
出来ず働くこともできなかったという。何年も続き多くの人が亡くなった。

 この村を通りがかった一人の旅の僧が、困り果てた村人を見て私がこの村の
病を治してあげますと村人に伝えそのまま二三日姿を見せない。村人はあん
なことを言ったけれど治すこなど出来ないと諦めかかった二三日後のこと、
其の僧が背中に背負子でいっぱい草を取ってきた。村人に草を煮出す釜を借
りその草を洗い釜に入れ水を入れて煮出した。
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【突然坊さんはいなくなった】
 病のひどい人からこの煮出した薬湯を飲ませた。毎日毎日続けるうちに病が
回復し始めた。そうこうするうちに半年の歳月がたち、あれほどの酷い病が
うそのようによくなっていた。多くの人が死に、何年も続いた病が治ったこ
とに村人たちは旅の僧は神様ではないかと尊敬していた。村中の人たちは何
かお礼にと考えたが長年にわたって働けなかったために何も出来ない。働き
盛りの男も多く亡くなっていてその妻女が不愍だった。村の長老は「その女
たちに村人のためだから」といい含め、お坊さんに一晩のもてなしをするこ
とを勧めた。この勧めで村中の女が坊さんのところに夜のとぎに出かけるよ
うになり、坊さんに抱かれた。 

 そのような日々が1年半も続いていたが小雪がちらつくある日、突然坊さん
が、誰にも告げずに峠道を何処ともなく去っていった。そしてその峠は金精
峠と名づけられた。
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【この坊さんはご落胤か?】
 その坊さんがいなくなり歳月が経つにつれて、この村の女の噂でお坊さんの
話が持ちきりになり、立派だったとか大きかったとか様々な話が消えること
無く続いた。村の長老は村人を救った坊さんを祭った。

 現在神社の石に「四十二代の天皇のご落胤」と刻まれている人はこの坊さん
ではないかと思われる。村の長老が村人を救った坊さんを祭ったのであろう。
その神社が道路付け替えでこのドライブインに移された。神社神楽殿はこの
上の白魚苑の中に今でも残されている。「金精神社跡地とその神楽殿に行っ
てその天井絵馬見ることですね」と老人はニコニコしながらその白魚御苑を
教えた。

 白魚御苑に神社があった。「神社はこのドライブインに移設したが、天井絵
馬は白魚御苑にあるので行って見てください」という。あのときの老人の話
が40年経った今日、その事実が判明した。

休憩したあと今度は白魚御苑に向かう。ドライブインから、約2キロのとこ
ろに白魚御苑があった。
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【神楽殿天井のすごい絵馬】
 白魚御苑は広い敷地内でその一隅に金精神社跡地があった。その神社ならび
に神楽殿があり、見所は神楽殿の天上の絵馬だった。まず拝観料を払って入
ってみた。これは見たこともない凄いと云う以外に言いようがない。格子天
井の一つ一つに浮世絵師が男女の営みをそのまま書いた絵馬があった。
ドライブインで話してくれた老人のニコニコ顔が思い出された。私たちが見
たのはこれが最初であり、そして最後であった。

 この絵馬は平成の今日では、すっかり取り替えて書かれた浮世絵になってい
る。私たちがあの時見たのが最後だったらしい。絵馬はすべて男精魂や女性
のそのものずばり描かれている。見る人たちがみな驚くばかりで、話すこと
さえしないで目をそらしながらも見入っていた。女性の美しい顔がよく見る
と皆違った顔をしていて上手に描かれていた。金精峠の見所の一つである天
井絵馬を見た。しかし最近ではあの頃の絵馬を知る人はもう少ないと思う。
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【旅の僧は立ち去る】
 この峠は群馬県から栃木県福島県に通じる道であった。この道を雪の降り始
める10月頃、神様とまであがめられた旅の僧が何処ともなく旅だって行った
という。ドライブインでの老人の話からこの人は凄く強い人であったことは
間違いない。平成になってからこの「金精峠神社」のいわれのいくつかの問
題がっきりした。ここに文書に書き纏めておきたい。
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【すごい薬草のあることを知っていた中国のお医者さん】 
 平成20年7月22日、子持町の榎本先生はお亡くなりになった。以下は榎本先
生の奥さんに聞いた話である。昭和64年平成元年から1年間来日していた中
国の張先生のことである。昭和65年、平成2年、赤城町津久田の育成園園長
である狩野安彦さんから云われたのだが、その張先生が私に聞きたいことが
あるので会いたいという。今から20年前の話である。
 
 私は自衛隊定年のときに人間ドックの精密検査をした。その結果脳動脈が細
く何時切れるかわからないといわれていた。昭和31年に頭部外傷をした後遺
症のためである。定年になってからの仕事は自由業だった。しかし思うよう
に仕事が出来ず、また道が満足に歩けないことが時々あるようになっていた。
土建会社に勤めていて栗原林道で仕事をしていた赤城村の知人が「この薬草
を飲んで見たらどうか」と勧められた。薬草を煮出して作っておいた薬湯を
茶のみ茶わんに一杯飲んだ。たちまち体中が熱くなり、とたんに、しょっち
ゅうしていた目まいがなくなった。身体の調子がよくなり道を歩いてもよろ
ける事がなくなった。此の薬草が私の体を治す元となった。53年のことであ
る。その後薬草の研究を自分の体で試しながら体験した。
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【張先生と知り合う】
 昭和56年から3年間、村の農業委員をした。このときに村に問題が起こった。
それは赤城会の不正問題である。この福祉の事業で多額の損出が出た。この
穴埋めを、村、農協、育成園が各々三分の一を負担する方式で行なうことが
決まった。

 そして多数決で問題を処理するので各々に利害か絡み、村でいろ
いろと揉めた。このあたりのことは長くなるのでまた別紙に詳しく書きたい。
この事柄と関連して子持村の医師である榎本先生の処にきた中国の張先生と
知り合うこととなった。
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【張先生と話し合う】
 園長狩野氏は私が自衛隊当時の頭部外傷のため苦しんでいたことを良く知っ
ていた。その後遺症がこの薬草で良くなったことを彼は中国の医師張先生に
話した。張先生は日本に繁茂している「ある薬草」について研究のために来
たという。張先生の方から私に薬草の効果を聞きたいというので、私と会う
時間や場所なぞを決めた。渋川の四つ角下のすし屋の一部屋で話し合うこと
となった。この時の話し合いの中で私は張先生に片品村金精神社のお坊さん
の薬草のことや老人から聞いた伝説のことを話した。

 張先生は、2千年ほど前のことだが中国から薬草採集のために数百人が日本
に送り込こまれ、採集した薬草を中国に送ったことがあると語った。そして
このことは中国の文献に載っていると教えてくれた。中国から来た人たちは
この薬草のことを当時の天皇に話していたと思うと云う。なぜなれば、中国
人は他国から来たのだか薬草を採取するためにはトップである天皇の許しを
得なければならないからである。
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【ないといわれた「せり黄草」】
 頭部外傷後の苦しみが薬草のおかげで良くなった話を張先生に話した。約1
時間この話を聞いた張先生は、これで日本に来た目的が果たせた。来た甲斐
があった。早々に日本から帰りますと言われた。

 その薬草である黄草の話を張先生が1時間にわたって説明してくれた。黄草
は世界中に約二十数種類ある。その中で日本の標高二千五百メートル以上の
山にある種類で『せり黄草』というものがある。これが世界一で、薬草の王
者であると云われているが現在では存在しないとされていた。なぜ無いのか、
その理由は昔約二千年前、中国から数百人の薬草の権威者を日本に送り込み、
全部取りつくしたと中国の文献に載っていたという。無いと云う黄草が日本
に有ったこととなる、これは大ニュースである。

 このことを中国の医大で話しているだけで生活が出来る。張先生はもう中国
に直ぐ帰ると云ってとても喜び、そして私に薬草のことをいろいろ話してく
れた。
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【黄草やつる人参その他の薬草の効果】
 張先生が話した薬草で、つる人参と言う薬草があった。朝鮮人参よりも5倍
ぐらい効くのに日本人はあまり使わないで、その代わり朝鮮人参を高価なお
金で買って使っている。

 朝鮮人参よりも、つる人参の方がずっと効くのに使わない。むしろ朝鮮人の
ほうがこれを使っている。そのほかすぐれた薬草があると教えてくれた。ど
くだみ、げんのしょうこ、せんぶり、ユキノシタ、山しゃくやく、その他沢
山の薬草を教えてくれた。日本は薬草の宝庫であると張先生はいう。これを
聞いて私はつる人参を採集し、これを焼酎付けしたものを作った。つる人参
は素晴らしい効力があり、これについて私が体験したことを話す。
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【つる人参の効能】
- 私が胸の骨を骨折した時の話である。痛くてとても我慢できない。お医者さ
んに連絡したところ「静かに休んでいるしか方法が無いから静かに休んでい
て下さい」と云われた。しかし私は痛くてとても我慢できなかった。痛みの
ときにはとても良く効くと張先生に聞いていたのでつる人参の薬液を作って
おいたことを思い出し、このつる人参のエキスを飲んで見たら驚いた。20分
ぐらいであれほど痛い痛みが嘘のように取れ、どうにか我慢できる痛みにな
った。1日1回のみ20日ぐらい続けたら、それほど苦しまないで良くなってき
た。その後は度々つる人参を使っている。

その他の薬草についても自分の身体に合わせ、飲んでみては試している。張
先生に教えてもらった薬草のおかげで、あれほど悪かった身体が、不思議に
もとても良くなってきている。いくつかの薬草のおかげでお医者さんに行く
のも少なくなり、どうにかやっていける。
今後元気でいる間に、青木の体験である「永遠の命求めて」を続けて書いて
いきたい。
 群馬県渋川市赤城町津久田  青木 良明