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平成18年11月18日

わたしのお墓の物語 (1)
青木 良明
【青木一族の墓地】
 栄光盛衰は世の習いというが、青木一族の墓地に残っている念仏塔、百番供養塔、大峰供養塔、そのほか数々の塔、それから青木家に伝わるいわれは、華やかだった昔を物語っている。また、片隅にある十二宮は、何かが亡び去った虚しさを、無言のままにこの世の人に問い掛けているようである。

 青木家の先祖のいわれや、いろいろと言い伝えで聞いていたことを思い出してみたい。古い書付や系図がたくさんあったけれども古物屋に出したり、たいした物でないと燃したり捨てたりしてしまった。また位牌などは薬師堂に位牌収めをした記憶がある。私が小学校のころのことである。

【私の先祖青木八郎佐ヱ門】
 私は、家の墓、本家の墓、墓地にある十二宮などを見て、先祖のことなど調べてみた。十六代目の皇胤(天皇の血すじにあたる人)が北関東制定のために遣わされ、その八人目の子どもが青木八郎佐ヱ門であるという系図も見ている。これらのいわれを調べ、また墓地を見て、どうしても不思議なのは墓である。 

【青木の先祖、赤城村に住みつく】
 今から千三百年の昔、北関東を制定するために付け人二十七人衆を引き連れて現在の赤城村津久田北原に住居を構えた。奈良時代か飛鳥時代のころのことで、古い城や、寺院などに関係していたといわれる。仏教は天台宗で、今赤城村三原田にある興禅寺の檀家となり、興禅寺建立をしたので特別な待遇で迎えられていた。私はそのようなことを、今は亡き先々代の吉原大僧正に聞いていた。

【青木家一族の言い伝え】
 青木家一族については、つぎのような言い伝えがある。鎌倉時代、新田義貞からの勅使があり、青木一族は旗揚げをして鎌倉に行き、そのまま帰らなかったという。

 旗揚げをした赤城村の青木家の先祖は、何かあった時のため、利根郡の青木村に青木の隠し部落を作っておいた、青木の血筋を絶やさないとしたためであり、青木三家の一つとなっていた。

 本家鎌倉征伐から帰ってこなかったので、すぐに隠し部落の青木村から本家の後見人がきたという。今から数百年前のことである。その他の家にも当時の城主が住んでいたといういわれもある。

【沼田城落城のとき】
 沼田城落城のとき、城主が妻を逃がすためには断崖を降りる方法しかなかった。このため、傘を使って崖から飛びおろし、そのあとで自分も縄で降り、最後の部下に縄を切らせて追っ手から逃れて大峰山に逃げた、と子どものころに聞かされた。

 明治初期のことである。その墓地の持ち主である人は一人で住んでいた。しかし娘が子持村に嫁いだので、やがてそちらに移った。その土地は、現在私の住んで居る土地とつながっており、その墓地だけが残っている。家は滅ぶ。 

【維新前の青木平八郎の話】
 少し私の先祖について書いてみたい。明治から十年ないし十五年前、沼田城内で勤皇・佐幕のどちらにつくかの重役会議があり、そのとき重役であった青木平八郎は勤皇をとなえた。しかし、青木以外の重役は全部徳川を立て、青木は城内で切り殺されたという。

【沼田城から脱出】
 青木の槍持ち、お庭番は直ぐに城を抜け出し、山道や間道を使って、無事妻子を子持村の空恵寺に逃がした。当時の掟ではそのまま昭和村の家にいれば切り殺されたと思う。空恵寺で二三日を過ごし、追っ手を恐れて現在の赤城村に逃げた。青木一族三軒のうちの一軒は空き家になっていたのでここに住み、その他の二軒に守られて何とか追っ手を逃れたといわれている。
 逃れてくるときは生まれたばかりの女の子を抱き、現在の子持村から利根川を渡って青木一族の住むところに辿りついた。

【青木の墓が沼田城の片隅に】
 明治維新直前になって、世の中の風評は15年前に青木がとなえた勤皇に傾いた。このためか、沼田城を見ると、青木の墓が城内の歴代城主の末席に建ててある。

【お祖母さんに伝わる】
 逃げてきた平八郎の妻は死期迫った最後の枕もとに娘「しげ」を呼び、「お前の父は沼田城の中に石塔がある。お墓参りをするように」との遺言をした。私、青木は、4歳、5歳、6歳と、お祖母さんにつれられてお墓参りに行った。鉄道が開通していたので、お祖母さんが隠居したころから、墓参りに沼田に行けるようになった。

【墓参り】
 沼田駅から長い長い階段を登った。登りつくとそこに饅頭屋があり、必ずお祖母さんが饅頭を買ってくれた。今は沼田公園になっているが、その当時は松ノ木や桜の木がまばらにあり、背丈の伸びた雑草の中に、どうにか道のある寂しいところを行く。その奥の坂を下ったところに少し平らな墓地があり、その墓地の奥の方から石塔が立ちならんで建っていた。手前の一番小さい石塔にお祖母さんが花や供え物を上げ、「この石塔が私の家の先祖なのだよ」と何も良くわからない私、照(てる)に話してくれた。照とは、私、良明の幼少の呼び名である。最近になってその墓を探してみたが、どうしても見つからない。どこかに移動したのだろうか。

【鈴木先生の来訪】
 その事をすっかり忘れていたが、昭和60年頃、日本考古学者氏研究家会長で埼玉県の鈴木先生が私の家にみえ、お宅の墓が青木の墓地で一番古いと聞きましたので、見させてくださいと来られ、見て貰った。
「古いのであれば私の大本家がすごいです」とお話したら、「是非見たい」といわれ、案内した。本家の墓を見て、鈴木先生が驚いた。即座に、「稀少価値からいうと40億円でしょう。ほとんどの石が長野県の石です」といわれた。

 私は「十二宮も見て下さい」と見ていただいた。やはり驚かれ「何でこの墓地や十二宮が明治の統合で社寺仏閣にならなかったのか不思議でならない」といわれた。その時に「この青木家の墓地や十二宮は、他には無いものです」といわれた。

【もう一つの墓地】
 その時には見てもらわなかったもう一つの墓地が、前に書いた沼田城の断崖から飛び降りて大峰山に逃げのびた城主、青木平ヱ門の墓ではないかと思われる。

 なにか大峰山供養塔のいわれに、青木平ヱ門建立とあり、いま一つのいわれでは、「俗名青木平ヱ門妻きく」建立となっている。 

 青木平ヱ門は沼田城を逃げて大峰山に立てこもり、幾人かの部下が夜な夜な食べ物を探したとか、敵が攻めてきても届かない岩の中復の穴に潜んでいたらしい。その人達は機敏であり、また大男だったようで、その後七脛神社となって今の利根郡のどこか祭られているという。

【さらに詳しく調べていく】
 大峰山や七脛神社を探してみたい。なお沼田城の中の旧城址や墓地などについて知りたいので、調べてわかったらその都度これから書き加えたい。お庭番のことについては、詳しくこの後に続きとして書きます。